(写真:加藤康)
衣料用の高機能繊維や水処理膜、炭素繊維……。産業用の素材・製品に強みを持つ東レが、がん治療薬の開発を進めていることをご存じだろうか。同社は長年、研究者の興味や意欲を尊重し、サポートする体制を整えてきた。その成果が徐々に表れている。

腫瘍の縮小に加え、再発・転移を抑えることでがんの悪化を遅らせる。正常組織を攻撃しないため、副作用が従来の治療法に比べて少ない――。東レは今、こうした効果が期待できるがん治療薬の開発を進めている。

東レが突き止めたのが、がん細胞に特異的に現れるたんぱく質の一種である「Caprin-1(カプリンワン)」だ。がんを治療する際に標的となるたんぱく質で、これを目印にがん細胞を攻撃することでがんの進行を遅らせるという効果を狙っている。そして、カプリンワンをめがけて攻撃する抗体薬自体の開発にも乗り出し、臨床試験へと歩を進めている。

東レは繊維や樹脂などのほか、医薬・医療事業も手掛ける。だがこれまで、がん治療薬の領域には手を広げてこなかった。そんな状況下で研究が始まったのは1993年。「がん治療薬を創出したい」という一心で同年に入社した、1人の研究員の思いからだった。現在、常任理事を務める岡野文義氏だ。

岡野文義氏 東レ常任理事。1991年3月九州大学農学部卒業。93年九州大学大学院農学研究科修士課程修了、東レ入社。2000年九州大学で農学博士号取得。15年からリサーチフェロー。19年に理事、22年から常任理事(写真:加藤康)

――なぜ東レでがん抗体医薬の開発をしようと考えたのですか。

「もともと大学時代にがんの研究をしており、ネズミに植えたがん細胞が、免疫の力でなくなったという結果を得ました。がん免疫治療薬の可能性の高さと大きな魅力を感じ、企業に入って新しいがん免疫治療薬を創出したいと意識するようになりました」

「父親が胃がんにかかって苦しんでいたほか、当時の研究室の教授と細胞生物学に精通した東レの研究者の間につながりもあったので、入社を決めました」

――入社後はすぐにがん研究に着手できたのですか。

「いえ、配属されたのは動物薬の研究開発(R&D)担当でした。話が違うので、正直会社を辞めようかとも思いましたね(笑)」

「ただ、動物薬事業の顧問を務める獣医師から『犬でもがんは非常に多い。問題になっているものの治療薬はない』との話を聞きました。それなら、犬でがん治療研究を進めて、その後ヒトに応用させていけばいいのではないかとの考えに至りました。そして、新入社員の時にがん治療薬の開発をテーマとして、『アングラ研究』に着手しました」

東レの「アングラ研究」とは
東レが設けている、研究者自身が関心を持つテーマについて自由裁量で研究できる制度のこと。上司に報告する必要がなく、全社の研究者に勤務時間の1〜2割をアングラ研究に充てるよう奨励している。

――その後、本業とアングラ研究との関係性はどうなったのですか。

「本業では試行錯誤をする中で犬の病気に対する治療薬の候補を複数生み出すことができ、成果が出てきました。その一つ、犬の皮膚病に対する治療薬『インタードッグ』の製品化にめどが立った報償として、アングラ研究のための海外留学を認められました」

「がん細胞の標的となる抗原を見つける研究のために米ピッツバーグ大学に入り、がん抗原を用いたがんの免疫治療研究・開発の場として米スタンフォード大学に移りました。計2年の海外留学でがん免疫治療の専門技術を磨きつつ、現在に至るまで連携できる人脈やパイプをつくることができました」

「帰国してからは東レが2003年に設けた先端融合研究所(神奈川県鎌倉市)で、がん治療薬創出のための探索研究に取り組んできました」

新人時代の技術が生きる

――具体的にどのような研究に臨んだのでしょう。

「主に(1)がんに特異的に存在する治療のための標的を効率的に見つける技術の確立(2)治療のための標的候補の複数特定(3)その中から固形がんの治療のための標的として有望なカプリンワンを発見――の大きく3点で成果を上げました」

「ここで、入社当初の動物薬開発担当時代に培った技術やノウハウが生きたんです」

――犬の病気に対する治療薬の開発ですね。

「はい。当時、犬の新たながん治療薬候補を創出しました。これをがんにかかった犬に投与し、その血液やがん組織由来のたんぱく質と反応させることで、血液中のがん治療のための標的候補を導き出しました。この結果、犬のがん抗原探索技術を確立し、カプリンワンを含む複数の新たながん治療のための標的を発見できました」

「要は東レだけが持つ犬のがん治療薬候補を使うことで、従来法と比べて効率的にがんの治療のための標的を突き止められるようになりました。これは動物薬研究に取り組んでいたからこそ確立できた技術です」

――カプリンワンについてもう少し詳しく教えてください。

「カプリンワンたんぱく質は、正常細胞では細胞膜表面にほぼ出てきません。一方、がん細胞の場合には細胞膜の表面に現れることを突き止めました。つまり、がん治療のための標的になる可能性があるということです」

「がんの再発や転移の原因となるがん幹細胞や転移性がん細胞に関しても、多様ながん腫でカプリンワンが同様に表面に現れることも分かりました」

「我々はヒトの胃がんでは7割弱、前立腺・膵臓(すいぞう)がんでは9割前後の割合でカプリンワンが細胞膜表面に現れることを確認しました。ほかのがん腫でも5〜9割前後で現れます」

胃がんにおけるカプリンワンの発現(左、茶色の部分)。正常な胃ではカプリンワンが現れない(写真:東レ提供)

「世の中では新たながん治療のための標的が見つからず、既存の標的を改良して良い薬をつくるのが一般的な流れです。さらに、がん幹細胞を標的とした医薬品はありません。今後はがんが見つかった場合、がんやがん幹細胞、転移性がん細胞に幅広く現れるカプリンワンを攻撃することで、がんの再発や転移を抑えられる可能性が期待できます」

――そうした研究開発の成果はどのように応用・展開していくのですか。

「東レではがん治療分野での大型事業創出を目指す判断を下しました。カプリンワンを標的としてがん細胞を攻撃する、抗体医薬の臨床開発を自社単独で進めています」

――東レには医薬・医療本部がありますが、がんの臨床開発に関する経験はなかったと思います。

「世界のがん治療薬開発の権威である米国とフランスの医師2人が、一連の成果を高く評価してくれました。彼らから東レの臨床開発を全面的にサポートしたいと提案があったのです。それに乗る形で私をリーダーとするプロジェクト体制を築き、東レの研究・技術開発の最重点課題に位置付けられることになりました」

「こうして進めてきたのが『TRK-950』という抗体医薬です」

――TRK-950とは、どういうものなのでしょうか。

「カプリンワンを標的にがん細胞を攻撃することで、腫瘍の縮小やがんの進行抑制、副作用の少なさといった効果が期待できる抗体医薬です」

――開発は円滑に進んだのですか。

「いえ。最もてこずったのが、いかにいい抗体を取るかです。治療時に目印となるカプリンワンにうまくひっつくことができなければ治療効果は期待できません。カプリンワンとの結合力が強い抗体を取るためにかなりの時間と労力を要しました」

――どのくらいの時間がかかったのですか。

「3年ちょっとかかったと思います。本当にありとあらゆるアプローチを取りました。マウスなどの実験動物にカプリンワンたんぱく質を免役するなど、様々な方法で多くの抗体を取得し、その中から良い抗体を選抜する作業を繰り返しました」

「最終的にウサギから良質な抗体を取ることができました。カプリンワンへの結合力は通常の抗体医薬の約1万倍という強さです。これを基に、人に適合できる形に改良したのがTRK-950です」

一刻も早い迅速承認目指す

――最近は臨床試験を進めているようですね。

「マウスやサルなどでの非臨床試験を無事に終えて、17年から臨床試験を始めています」

良い抗体を取るためにありとあらゆるアプローチを取った(写真:加藤康)

「17年から始めたのは、米国とフランスにおける(動物実験結果を受けてヒトに適用する最初のステップである)『第1相臨床試験』『第1b相臨床試験』です。22年からは日本で第1相臨床試験を実施し、延べ157例のがん患者にTRK-950を投与しました。23年10月からは胃がん患者を対象に、(少人数の患者に効果を検証するステップである)『第2相臨床試験(治験)』を進めています」

「これまでの臨床試験で、既存の抗がん剤とTRK-950を併用することでより効果が表れる可能性があると確認しています。例えば、症例数は少ないですが、胃がん患者を対象とした臨床試験ではカプリンワンが強く発現している患者に対するがんの腫瘍が30%以上縮小した割合は100%でした」

「胃がん以外にも、悪性黒色腫(メラノーマ)や卵巣がん、腎臓がんなどでも有望な結果が得られていると見ています。併せて、抗体に抗がん剤などの薬剤を付加した抗体薬物複合体(ADC)の開発にも取り組んでいます」

――今後の目標は何でしょうか。

「当面の目標は一刻も早くがんに苦しむ患者にTRK-950を届けるため、(米食品医薬品局が開始した短期間で医薬品を評価、承認する制度である)『迅速承認』を取ることです。治療薬として製品化する際に全てを東レで開発するには限度があるので、製薬企業など外部との連携も模索していきます。すでに国内外を問わず、複数の製薬企業などから問い合わせが増えてきています」

日本流で「研究者のジレンマ」を超える
TRK-950は構想から30年、本格的なプロジェクト開始から10年。製品化に至ったわけではないものの、会社として研究開発投資を決して惜しまなかった。海外企業などではR&Dを始めて3〜5年で成果が出なければ潔く撤退する、といったケースが一般的だ。東レのR&D思想はこうしたものとはひと味違う。

「大学院の博士課程を出て会社に入ると、自分の関心がある研究ができず、ジレンマに陥ってしまう研究者も少なくない」。東レの日覚昭広会長はこう指摘する。東レでは研究者の自主性や将来の事業の種を育てる一環として、アングラ研究を位置付けている。

その裏側にあるのが「日本人には日本人なりのイノベーションの起こし方がある」(阿部晃一常任顧問)という考え方だ。

「いつモノになるか分からない基礎研究であっても研究者自身がわくわくとして継続できる」「異質なものを融合できる技術融合の素質がある」

そんな日本人の気質を最大限発揮できるような基本思想があるからこそ、主力事業の芽を育むことができる。東レの主力事業である炭素繊維や水処理膜なども、十分な期間と資源を投じてきたからこそ成長させられた。

少しやってみてダメなら次に切り替える。変化の激しい昨今にはそうした迅速な経営判断も必要だろう。だが、それ一辺倒になってしまっては技術革新が起きる可能性は低くなりかねない。

「素材の開発には時間がかかる。目先の利益だけに集中すると会社の将来がない。10年、さらにその先を見据えて予算や時間を使う」(日覚会長)。日本のものづくり、そして日本企業自体の再興には、こうした東レ流のやり方にもヒントが隠されている。

(日本経済新聞 生田弦己)

[日経ビジネス電子版 2024年4月3日の記事を再構成]

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