取材で会うといつもは快活な安田秀一氏が、その日は疲れているように見えた。2020年6月のことだ。

当時、安田氏はスポーツ衣料販売のドーム(東京・江東)の経営者として、窮地に立たされていた。無理な拡大戦略がたたって、初の最終赤字に陥ったのは19年12月期だ。大株主で、総代理店契約を結ぶスポーツ衣料の米アンダーアーマーから赤字を問題視され、ドームの大手資本への売却と、安田氏自身の退任を迫られた。

大手資本に売却するにしても、赤字のままでは二束三文でしか売れず、売却後の社員らの処遇についても好条件を引き出すことは難しい。安田氏にとって、20年12月期の黒字転換は必達目標となっていた。

「あの頃は一番苦しかった」と安田氏は振り返る。

経営者は最終的な経営責任を一身に背負っており、精神的な負担は大きい。メンタルケアアプリを提供するAwarefy(アウェアファイ、東京・新宿)のアンケートによると、経営者になってから心が不調になった経験が「ある」と回答した割合は47%にも達する。心を健康に保つためには、何かしらのケアが必要だ。

安田氏の場合、困難な状況に心を押しつぶされまいとして、神に頼った。

神社で交わした神様との約束

毎朝のように犬の散歩がてら神社に寄り、「この難局をうまく切り抜けられたら、必ず社会に貢献する人間になります」と誓った。霊山として知られる奈良県の大峰山で、修験者のように滝行や水行、登拝にも挑んだ。

安田氏は「人生の大勝負の時であることは自覚していた。結果次第では社員らが不幸になる。神に頼ったのは、自分一人でその重荷を抱えきれなかったからだ」と語る。

安田氏のような経営者に限らず、太古から多くの権力者が大勝負の時に、人知を超えた「大いなる力」に頼ってきた。小塚易学研究所(静岡県掛川市)の小塚竹司氏は「大昔の中国の武将は易者を抱え、合戦で重要な決断を下す際に活用していた」と解説する。

小塚易学研究所の小塚竹司氏は鑑定士として個人や企業から相談を受けている

易者とは筮竹(ぜいちく)と呼ばれる竹ひごのような道具などを使った、古代中国発祥の易占いを行う者のこと。日本でも戦国時代に武田信玄が易占いを駆使する軍師、山本勘助を抱えるなど、武将が「大いなる力」に頼るのは一般的であった。

現在、小塚氏は易者として経営者から経営相談を受けている。「占いを利用する目的は違っても、今も昔も成功したいという思いは一緒だ」と言う。

もちろん占術や祈願に頼り切って思考停止に陥るのは危険だ。ただ節度を守れば、「大いなる力」によって心的負担が軽減され、よい結果につながることもある。

神に重荷の一端を担いでもらった安田氏は、20年12月期に黒字転換を果たすことができた。22年には無事にドームを伊藤忠商事に売却し、自らは経営から退いた。

安田氏と対照的なのが、U-NEXT HOLDINGS(HD)の宇野康秀社長だ。安田氏と同様に苦境に陥りながら、宇野氏は神の存在を否定する。「世の中のために頑張ってきたのに、なぜこんなにつらい経験をしないといけないのだ」との憤りから、「神はいない」と思うに至った。

08年に発生したリーマン・ショックの余波で当時、宇野氏が社長を務めていた音楽・動画配信のUSENが赤字に陥った。これが悪夢の始まりだった。

U-NEXT HOLDINGS(HD)の宇野康秀社長。2024年4月1日にUSEN-NEXT HDから社名を変更した。売上高1兆円の企業を目指して、新しいステージに移行した節目と位置づけている(写真=的野弘路)

取引銀行からの圧力で、事業部門や子会社を切り売りせざるを得なくなった。宇野氏は「手塩にかけて育てた子どもを売っているような気持ちがした」と語る。その上、10年には社長の退任を余儀なくされた。

受難続きの局面でも宇野氏は神に頼ることはなかった。その代わり、「肉体を鍛えないと、メンタルが持たない」と感じ、次々と過酷なスポーツに手を染めていった。

まずはトライアスロンに挑んだ。次は山道を走るトレイルランだ。さらに登山も始め、欧州アルプス最高峰のモンブランやアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロの登頂に成功した。

一連の挑戦を通じて、「いくらつらくても、終わらない上り坂はない」と実感するなど、精神的な苦痛を克服するための学びを多く得た。

10年にUSENの社長を退任したのを機に、宇野氏はUSENから分離独立した動画配信のU-NEXTを買い取り、経営者として再起を図った。経営は軌道に乗り、17年にはかつて自分が事実上追放されたUSENと、U-NEXTを経営統合し、USEN-NEXT HD(現U-NEXT HD)を発足させた。宇野氏は「経営統合を果たし、ようやくつらい時期が終わった」と、波瀾万丈(はらんばんじょう)の半生を振り返った。

仏道に救いを求めて

安田氏や宇野氏とは全く異なる次元で心の救いを求めたのが小野龍光氏である。本名の小野裕史を名乗っていた22年までは、自ら設立したベンチャー投資ファンドを運営したり、投資先のIT(情報技術)企業をいくつか経営したりしていた。

小野氏は、「経営者として(売上高やシェアなどの)数字を膨らます競争に明け暮れていた。目標を達成しても、すぐに次の目標を追わねばならず、永遠に心が満たされることがないことに気がついていた。それでもひたすら自らを鼓舞して働いていた。苦しかった」と当時の心境を振り返る。

小野氏はそんな状況から逃れるように22年8月、IT企業の経営から退くと、心に大きな穴があいてしまった。そしてインドを旅行し、現地で日本出身の高僧に勧められるがまま得度した。以来、頭を丸め、けさを着て、高僧からもらった龍光の名前で生きている。

仏教などの教えに沿って生きる小野龍光氏。名声は求めておらず、メディアに登場するときは、なるべく顔を出さないようにしている(写真=小野龍光氏提供)

ただ僧侶になるための正式な手順を踏んでいない。そのため小野氏は自らを仏教僧であるとは認識していない。仏教以外の宗教や哲学の思想も学びつつ、困っている人の相談に乗ったり、講演したりする日々を送っている。

小野氏は、「自分なりの学びをシェアさせていただく中で、相手から『安心しました』と言ってもらうだけでうれしくなる。今は穏やかで、感謝にあふれた日常を送らせていただいている」と語る。

ブッダは、富や権力を追い求めても人は苦しむだけだと説いた。心に平穏と充足感がもたらされるのは、そのような欲求を捨て去ることができたときだとした。

現在苦しんでいる経営者は、富や権力を追求するだけの人生を送っていないか、わが心に問うてみるといいかもしれない。

(日経ビジネス 吉野次郎)

[日経ビジネス電子版 2024年4月18日の記事を再構成]

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