アジア通貨危機の衝撃
大庭 三枝 先生は、2003年から05年にアジア政経学会の理事長を務められました。この時期のご関心はどこにありましたか?
末廣 アジア通貨危機の発生で私の研究はすっかり変わってしまいました。1989年にCapital Accumulation in Thailand, 1855–1985(Tokyo: The Centre for East Asian Cultural Studies)という英語の本をユネスコ東アジア文化研究センターから刊行して、それを機会に私はタイの企業研究、財閥研究に一区切りつけ、タイ人のエンジニア(技術者)の形成史に関する研究や戦前から現在に至る労働運動、労働問題をやろうとしていました。
ところが1997年にアジア通貨危機が起こって、世界銀行やIMF(国際通貨基金) が皆、ファミリービジネスの根強い存在が今回の危機の諸悪の根源だと主張しました。これには納得がいかず、当時、東大大学院の博士課程にいたタイ人留学生と共に、タイ証券市場に上場していた500社以上の企業の1996年と2000年の財務関係、主要株主、経営陣に関するデータを入力したうえで、分析を開始しました。結局、ファミリービジネスへと研究テーマが戻ってしまったわけです。
それともう一つ、アジア通貨危機が契機となって、金融問題や金融制度についての勉強を求められました。技術者や労働運動の研究は脇において、タイの企業経営(危機からの再建)や金融機関の再編の方に研究テーマが移っていきました。つまり2000年代半ばくらいまでは、アジア通貨危機との関係でタイやアジア諸国の経済研究を進めていたのです。
末廣昭・東京大学名誉教授
アジアに目を向ける日本
大庭 アジア通貨危機の前後で日本のアジア研究、アジア認識は変化したのでしょうか。
末廣 もっとも印象的なのは、アジアにあまり目を向けていなかった日本政府が、この危機を契機にアメリカの意向に関係なく、独自にアジアとの関係を構築しようとしたことです。中国に対してAsian Monetary Fund(AMF)(アジア版国際通貨基金)の創立を打診してみたり、宮沢プラン(新宮沢構想:日本による二国間協力ベースでの資金支援で、300億ドルが用意された)を推進したりと、さまざまな構想が出ました。象徴的だったのは、経済産業省の『通商白書2001年』が冒頭に大特集「東アジアを舞台とした大競争時代」を組んだことでした。それまで欧米中心に世界経済を見ていた『通商白書』の執筆者が、アジアに目を向けるようになったのです。
もう一つの大きな変化は、中国がASEAN(東南アジア諸国連合) 地域への南進の動きを見せ始めたことです。2002年に中国は、ASEANとの包括的経済協力協定を向こう10年間で完成させると宣言し、実際に08年までに貿易協定や投資協定などを締結しました。他方、日本は02年1月に、小泉純一郎首相がシンガポールで「東アジア共同体構想」を提起するなど、日中両国がASEANとの関係強化を巡って競い合うわけです。当時日中両国ともにASEANにもっとも接近し、1997年に開始されたASEAN+中国/日本の首脳会議の場を各々使って、自分たちの構想を展開する競争が始まった。同時に、韓国も加わって「ASEAN+3」の会合も始まりました。東北アジアと東南アジアにまたがる地域協力の絵が描けるという、今では到底考えられない状況があったのです。
別の面から見れば、日本とアジア、太平洋との関わりを示す言葉が、1990年代はアジアNICs、あるいはアジア太平洋地域経済と言われたものが、2000年代に入ると東アジア一辺倒に変わる。その後インドが出てきたので、東アジアの「東」を取ることになり、さらにはアジアへのピボット(旋回)を宣言したアメリカ(オバマ大統領)との連携を意識して、かつての「アジア太平洋」に回帰しました。その地域概念の変遷が、日本政府のアジアに対する認識と政策の変遷を見事に反映していて、面白かったですね。
タイ経済研究からの展開
大庭 末廣先生はタイ経済研究を起点に多様にご研究を展開された印象を持ちます。
末廣 1976年から1987年まで所属したアジア経済研究所調査研究部の方針もあって、私は基本的にタイ研究、つまり一国研究(カントリースタディ)をやってきました。でも、大学時代に勉強していたのは現代日本経済論と日本経済史です。タイ経済研究を始めて、先行研究の多くが欧米の研究成果に依拠していたことに気づき、何とか日本経済史研究に近い、地に足のついた実証研究をタイについてもやりたいと思いました。これが出発点でした。そこで、日本経済の発展パターンを念頭に置いてタイの経済発展の特徴を考えようとしました。この点、タイから研究を始めた地域研究者の人たちとは違うのです。
もう一つ別の動機は、学生時代から行なっていた多国籍企業研究と関係します。決定的だったのが1997年のアジア通貨危機でした。通貨危機やその発生前のタイにおける経済ブームには、タイに閉じこもって研究していたら実態が見えないことが多くあることを痛感しました。ただ、その時点では中国という経済大国には手を出さないと決めていました。人口大国で制度も複雑な国を対象に含めたらやけどするからです。
ところが2000年代に入ると、中国を分析対象に入れないことにはアジア経済を議論することができなくなってきました。そこで、中国の南進の拠点となっている大陸部東南アジアの「CLMV+タイ」(カンボジア・ラオス・ミャンマー・ベトナム・タイ)を中心に考察することになり、中国研究者とともに共同研究(「大メコン圏」= Greater Mekong Sub-region)を始めました。中国研究と東南アジア研究という縦割りを超えた試みでした。
大庭 中国の経済的な台頭、影響力の拡大を、東南アジア研究の視点からどのように捉えたのですか。
末廣 中国の政府や企業が東南アジアに進出するとき、華人・華僑のチャネルだけを使うのではなく、時にはローカルの非華人系企業も随分と使うわけです。その点は「華人経済圏」を議論する人たちと東南アジアの地域研究者が見ている現場とはやはり違っていましたね。例えば、業種によって固有の論理もあり、不動産業や資源産業のように、政府が許認可権を持っている場合には、華人・華僑のネットワークだけに頼っても駄目ですから、いろいろな手段を使う。
また、この時期の大きな変化は、タイと中国の間の相互認識の変化です。中国との交流が増えると、かつての「チーンデーン」(「赤い中国」=共産主義の怖い国というニュアンス)ではなく、中国を「中国」(プラテート・チーン)と呼ぶようになり、華僑の子弟らの中国語学習も自分の先祖の出身地の言語(潮州語など)ではなく、ユニバーサルなコミュニケーションツールとして、仕事やビジネスに将来役に立つだろうという実利的な観点から中国語(普通話)の学習を始めたのです。
変化の速いアジアをどう把握していくか
大庭 今、あえて日本でアジアを研究するということの意義をどうお考えですか?
末廣 私にとってショックだったのは、アジア関係書物の専門書店「アジア文庫」の店舗(神保町)を経営していた故・大野信一さんの話です。大野さんの話では、アジア関係本が1番売れていたのは実は1988年頃で、以後は下降気味だったそうです。私たちの感覚では、1990年代後半に日本社会のアジアへの関心が高まったかに思っていましたが、その頃にはすでに下り坂だったのです。
大庭 研究対象としての東南アジアの変化も極めて早いですね。
末廣 現在、東南アジアの政治や経済をどういう視点で把握すればよいのか、本当に難しい時期に来ていると思います。例えば、タイの民主化を論じる際に、1992年の「暴虐の五月事件」以降は、民主主義の制度化とその定着を議論すればよかった。ところが、2014年5月のクーデター以後のタイの政治状況をどう理解したらよいのか、実はよく分からない。
タイ以外の東南アジア諸国、マレーシアやインドネシアやフィリピンの現状も似たようなところがあります。欧米諸国で発達した政治学のツールを使っても、東南アジア諸国の政治の現状はうまく分析できないし、かつてのように地域研究者が過去の体験を頼りに観察しても、起きていることを説得的に説明することができない。過去の経緯ではなく現在進行形の東南アジアの実態に関していえば、非常に捉えにくくなっていると思います。
もう一つ、アジア地域におけるデジタル社会化とSNSの影響を、私たちはまだうまくつかめていないように思います。議会制民主主義の制度がありながら、政治体制としては権威主義の傾向が強まるとか、政治指導者のパーソナリティが政治の世界でますます重要になっている背景には、いずれもSNSの影響があると思います。
自分の専門とするタイについてですが、私はタックシン政権(2001年~06年)が残したものが大きかったと考えています。グローバル化と経済の自由化が進む中で、タイがいかに生き残るのか。タックシン首相はいろいろとラディカルな試みを行ったわけですが、結局、国民の多くが受け入れなかった。彼らは王制を中心にすえる道を選んだ。ところが、その王制も若い世代を中心に厳しい批判が出ています。したがって、現在の軍事政権に代わる若い新しいリーダーの登場が期待されているとは思うのですが、その方向性が今のところ見えていません。
政治だけでなく、経済も尻すぼみで、文字通りタイは「中所得国のわな」に陥っている状況です。だからと言って、政府が強引に高成長路線を取れば、分断と格差が広がって、少数の人たちのための発展になりかねません。ですからタイの場合、高所得国への仲間入りをしゃにむに目指すのではなく、高所得国の入り口あたりに仮に留まったとしても、社会の成熟を図った方が私は賢明だと思います。
こうした点を把握するには、地域研究の意義とその役割を、もう一度評価した方がいいと思います。例えば、東南アジア諸国での総選挙でも、選挙行動を統計的に処理して分析する研究者は増えていますが、現地の人々が何を考えてなぜこの人に投票し、どのような社会を望んでいるのか、そういうごく当たり前の、でもとても重要な問題をきちんと分析する人がいない。それはやっぱり現場を見ないからじゃないか、というのが私の感想です。
聞き手の大庭三枝・神奈川大学教授(左)と末廣昭・東京大学名誉教授
インタビューは、2022年9月26日、nippon.com において実施。原稿まとめを大庭三枝・神奈川大教授と川島真・東大大学院教授が担当した。『アジア研究』(70巻1号、2024年1月)にインタビュー記録の全体が掲載されている。
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