界 由布院のスタッフは自分たちの働き方について積極的に話す(写真=菅敏一)

人手不足が進む中、企業は現場の生産性を高めるなど様々な知恵を絞る。星野リゾート(長野県軽井沢町)がこのところ力を入れるのが、働くスタッフの気持ちに寄り添う施策だ。2つの手法を導入しており、独自の働き方改革で生産性を高めながら社員の定着にもつなげている。

「界サミット」と「心理的ES」

取り組みの1つは、ブランド全体で接客の範囲などを定める「標準業務」の策定にあたって、スタッフの気持ちをきめ細かく反映する工夫を取り入れたこと。一部の施設で先行して実施しており、キーワードは「心理的ES(従業員満足度)」だ。

同社は「星のや」「リゾナーレ」など施設の特徴によって5つのサブブランドがあり、今回先行して実施するのが温泉旅館「界」の施設だ。全国に23カ所(2024年9月末時点)あり、スタッフがいろいろな業務を兼務する「マルチタスク」の習熟度が高い。新たな施策を進めやすいため、旗振り役に選んだ。

界の施設から集めた若手スタッフが標準業務などについて議論する「界サミット」を24年1月に開催。様々なサービス内容について話し合うとき、議論の基準としてESを盛り込んだ。さらにESを、サービスの提供で顧客が喜ぶ姿からスタッフが感じる「心理的ES」と、実際に体を動かすことによる負荷を示す「身体的ES」に分けて分析する工夫を取り入れた。

同社によると、宿泊業のサービスは身体的ESや生産性の面ではマイナスでも、心理的ESにはプラスに働くことがある。例えば界の施設にある地域の工芸品などを取り入れた「ご当地部屋」。スタッフがしつらえなど客室のコンセプトをしっかり伝えるには、客室内に入って説明する必要がある。そのためにスタッフは靴を脱いだり客室内に宿泊客の荷物を運んだりしなければならないため、身体的ESにはマイナスに働く。一方、コンセプトをしっかり伝えることで宿泊客に喜んでもらえれば心理的ESにとってプラスに作用する。

界サミットでは客室への案内を含む23のサービスについて、心理的ES、身体的ESのほか、顧客満足度や収益力なども含む6項目が「それぞれどう影響するか」を○、△、×の3段階で評価。その上で「全ての要素を高い次元でバランスさせる」方向で議論を進めた。

結果、宿泊客の客室への案内は、「室内に入る説明は身体的ES、生産性が下がるが、お客様の満足度にはつながり、それによって心理的ESも大きく上がる」ことから「全体最適」と判断。客室の案内は室内に入って行うことを決めた。他の項目も同様に判断しており、担当する同社オペレーションマネジメントユニットの石井麻美ユニットディレクターは「ESを心理的ESと身体的ESに分けることで、サービスにスタッフの納得がより反映される形になった」と話す。

客室内のしつらえの説明方法について話す界 鬼怒川のスタッフ(写真=尾関祐治)

「もっと分かりやすい説明ができないか」。界 鬼怒川(栃木県日光市)のスタッフは10月のある日、新たに施設に赴任したスタッフに対し、宿泊客を客室に案内する説明方法をトレーニングしていた。

客室内には益子焼や黒羽藍染(あいぞめ)、大谷石などの工芸品をモダンにしつらえており、指導役のスタッフはトレーニングを受けるスタッフの質問にも答えながら、その魅力をどうしたら伝えられるかを中心に説明した。同施設の藤永聖子総支配人は「スタッフは、手間がかかってもしっかり説明することでお客様に喜んでほしい気持ちが強い」と話す。

心理的ESも盛り込んだ標準業務によって「全体最適」を図ると同時に、界サミットでは施設ごとの「部分最適」の導入も決定。ブランドの総支配人会議で了承されればそれぞれの施設の裁量でサービス内容を変更できることになり、施設の事情に合わせた働き方を採用しやすくなった。

界 鬼怒川のロビー。東京など関東周辺からの宿泊者が多い(写真=尾関祐治)

「ざっくばらん会議」で「らしさ」取り戻す

働くスタッフの気持ちに寄り添うもう1つの取り組みが、全施設で進めるフラットな組織文化を強化するしかけづくりだ。

界の施設の場合、23年1月からスタッフ全員が参加する「ざっくばらん会議」をスタート。1〜2カ月に1回のペースで開催しており、じっくり話し合うために、稼働率9割以上の施設も同会議の日は休業して議論に集中するほど力を入れる。施設によってはスペースの関係から近隣の会議施設を借りて行うこともある。テーマはそれぞれの施設に任される。

同社は1990年代に星野佳路代表が経営を引き継いで以降、フラットな組織文化を重視し、スタッフの発案によって施設の魅力を高めることが競合との違いを生み出してきた。新型コロナウイルス禍でスタッフが集まって議論するのが難しくなった時期があり、同会議を導入した狙いについて石井氏は「星野リゾートらしさを取り戻すための時間。丸1日休んでもそれよりもいい成果が出せる」と説明する。スタッフからは「フラットな組織文化に憧れて入社しており、会議では『この会社でやりたかったのはこれだ』と思って参加している」「自分たちで施設をつくっていく感覚を持つことができる」など前向きな声が目立つ。

界 由布院は2022年に開業した施設で、棚田をランドスケープとしている(写真=菅敏一)

界 由布院(大分県由布市)の場合、同会議を近隣の会議室を借りて開催し、スタッフは私服姿でくつろぎながら意見を出し合う。丹澤徹総支配人は「自分で考えるからこそ、スタッフの働きは作業でなく、仕事になる。その意味で会議が働きがいや仕事への自負を高める場になっている」と話す。会議では業務改善のアイデアなどを自由に話してもらい、実際に現場で生かしている。

同社によると、心理的ES、ざっくばらん会議というスタッフの気持ちを優先した施策の効果は大きく、具体的な数字は公表していないものの、スタッフの離職率が低下しているという。社員の定着が進み、業務を熟知する社員が増えれば、サービスの質はその分高まり、生産性も向上しやすい。

星野代表は「本当の意味で生産性を高めることが大切。人を削減するとか時間を削るとかではなく、一人ひとりが経営判断できる組織になることが現場の競争力につながる。それが観光を一流産業に近づける上でも大切」と強調する。

同社の取り組みについて、武蔵野大学の宍戸拓人准教授は「人は機械ではないので、生産性を持続的に高めるためには、やりがいやオープンに発言する場といった、一見すると生産性を下げるような遠回りなことにも注力すべきだ」と話す。スタッフに寄り添う手法は生産性をめぐる新たなトレンドとして今後も注目したい。

(日経ビジネス 中沢康彦)

[日経ビジネス電子版 2024年10月17日の記事を再構成]

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