ホンダと日産自動車は23日夕、トップが記者会見し経営統合に向けた本格的な協議入りを発表する。両社はどのような会社なのか、歴史や大ヒットモデルをひもといた。
日産自動車の創業者は実業家、鮎川義介氏。明治の元勲、井上馨に近い名家出身で、戸畑鋳物(旧・日立金属、現・プロテリアル)を創業。多数の企業を傘下に持つ新興財閥「日産コンツェルン」を率いた。
ダット自動車(脱兎号)で知られる快進社系の企業も取り込み、1933(昭和8)年に「自動車製造株式会社」を設立。翌年、社名を日産自動車に変更した。35年には日本初の量産車の一貫生産を開始した。
戦後は「ダットサン」シリーズの乗用車、トラックを展開。60年代に日本がマイカー時代を迎えると、サニー、ブルーバード、グロリアといった人気モデルを相次ぎ投入。新型スポーツカーとして発売された「スカイラインGT-R」「フェアレディZ」は現在も日本を代表する名車として知られ、「技術の日産」の名を不動のものにした。
だが、90年代に入ると販売不振で深刻な経営危機に陥る。99年にはフランスの自動車大手・ルノーとの資本提携に踏み切り、傘下に入った。その際、ルノーから送りこまれたのがカルロス・ゴーン氏だった。
ゴーン氏は国内工場の閉鎖など大規模なリストラを断行。業績は急回復し、カリスマ経営者として国内外で高い評価を受けた。2016年には燃費不正問題で経営が悪化した三菱自動車に出資し、ルノーを含めた3社連合を形成した。
波乱が起きたのは18年だ。東京地検特捜部はゴーン氏を金融商品取引法違反容疑で逮捕。事件を受け、日産は社外取締役に大きな権限を与える「指名委員会等設置会社」に移行したが、19年にゴーン氏を追放した西川広人社長(当時)に役員報酬を巡る問題が発覚するなど経営のごたごたが続いた。
西川氏の後任として、再生を託されたのが現社長の内田誠氏だ。「世界販売首位」を掲げてひたすら拡大路線を進めたゴーン時代の失策からの立て直しに加え、不祥事で傷ついたブランドイメージの回復という重い宿題を抱えながらの船出となった。
自動車業界は「100年に1度」の変革期を迎え、電気自動車(EV)へのシフトや自動運転への対応などで大規模な投資が必要となる。日産は量産型EV「リーフ」を10年に発売するなど一時は電動化技術で業界をリードしたが、今では米テスラなど新興メーカーに大きく後れを取っている。経営を支えてきた中国市場での販売不振も鮮明だ。
日産をめぐっては、日産株の4割強を保有するルノーが主導権を握ってきたが、23年に両社が株式の15%を相互に保有する対等化を実現。長年の課題だった不公平な資本関係に一応のけりをつけた。さらにホンダとの統合が実現すれば、日産は再び大きな業界の再編に直面することになる。【小坂剛志】
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