米軍が戦後、日本のBC級戦犯を裁いたマニラ軍事法廷で死刑となった山下奉文大将と本間雅晴中将の慰霊碑を訪ねた。いずれの慰霊碑もフィリピンのラグナ州ロスバニョスに残っているが、新型コロナウイルスの感染が広がった2020年以降、日本からの訪問者はほとんどいなくなったという。
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3月9日、マニラから車で2時間ほど離れたロスバニョス。住宅地の脇の草深い場所に「山下将軍を偲(しの)ぶ会」が1970年11月に建立した慰霊碑があった。慰霊碑には、山下大将の「ま(待)てしばし勲のこ(残)してゆきし友 あと(後)なした(慕)いて我もゆきなむ」という辞世の句も刻まれていた。敷地にはさびた鳥居と小さなほこらがあり、10人ほどの小さな子供たちが遊んでいた。
山下大将は開戦直後のシンガポール攻略戦などで勇名をはせ、「マレーの虎」との異名をとる一方、44年のフィリピンを巡る米軍との戦いでは大本営との確執が浮き彫りになったことでも知られる。
そこから500メートルほど離れた雑木林の中に本間中将の慰霊碑もあった。親族の言葉と思われる「父の魂よ この地にてとこしえに安らかに眠りたまえ」という碑文が刻まれていた。日付は73年だった。
山下大将の慰霊碑を管理している現地住民や本間中将の慰霊碑のそばに住む人によれば、70年代には遺族や関係者らがバスを連ねて慰霊に訪れていた。だが、訪問者は年々減り、新型コロナウイルスの感染拡大を契機にほぼ途絶えたという。
マニラ軍事法廷を研究しているフィリピン大学のリカルド・ホセ教授によれば、米軍は、有名な軍人だった山下大将と本間中将の処刑地が「聖地」となることを警戒し、当時は人が住んでいなかったロスバニョスを処刑地に選んだという。
マニラ軍事裁判では、朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)中将もBC級戦犯に問われ、1946年に絞首刑となった。日本統治下の朝鮮出身者としては、王室を除けば最高位の階級に上り詰めた軍人だった。朝鮮出身のBC級戦犯は洪中将を含めて148人。2021年に最後の生存者が亡くなり、詳しい記録もほとんど残っていない。(フィリピン・ロスバニョス=牧野愛博)
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