第2次世界大戦中に日本人移民を「敵性外国人」とみなし迫害したとして、ブラジル政府が初めて行った公式謝罪。南米移民の知られざる歴史に向き合う決定に、出身者が多い沖縄県の関係者にも歓迎の声が広がった。戦後79年を迎えても暗部に向き合う国家の姿勢は、排外主義が横行する世界に重い問いを投げかける。日本政府は何を学ぶべきか。(木原育子、森本智之)

◆沖縄出身者らに「立ち退き」「収監」

 「涙で言葉が詰まってしまったようで…」。日系ブラジル3世の新屋敷 幸福(しんやしき・こうふく)さん(59)=沖縄県うるま市=は、ブラジル政府の謝罪のニュースを聞いた瞬間の母親(88)の様子をそう語った。

ブラジル・リオデジャネイロのコルコバードの丘のキリスト像

 謝罪した「サントス事件」は1943年7月に起きた。ブラジル南東部のサンパウロ州サントス沖合で、枢軸国ドイツの軍艦がブラジルや米国の商船を撃沈したのを機に、同じ枢軸国の日本にルーツを持つ日本人移民ら約6500人に24時間以内の強制立ち退きを迫った。6割が沖縄県出身者だったとされる。  もう一つは1946〜48年に日本人移民172人がサンパウロ州沖のアンシエッタ島の刑務所に送られた収監。終戦直後に日本が戦争に勝ったとのデマを信じた「勝ち組」が、敗戦を受け入れた「負け組」を殺傷する事件が相次いだためだが、140人近くは天皇の写真や国旗を踏むのを拒否しただけの「無実の人」だった。

◆「とんでもない土地」あてがわれ苦難

 「1世の祖父から日本人移民の苦労を何度も聞いて育った」と語る新屋敷さんはサンパウロで生まれ育ち、12歳で家族で沖縄に戻った。祖父たちから、戦争中「敵性国民」として日本語が禁止になった話を聞いた。「子どもたちに祖国の日本語を教えるため、日本語の教科書を、明かりを消してろうそく1本で隠れて教え続けた。警察が来たら、別の本に差し替えて生き延びたようだ」と振り返る。

1908年の第1回ブラジル移民で渡航した沖縄県民の旅券(2022年、JICA横浜海外移住資料館の企画展で展示)

 第1次世界大戦後の恐慌で、日本政府は南米移民を奨励。新屋敷さんの祖父母も20代で海を渡ったが、「あてがわれたのはとんでもなく荒れた土地。夕食も献立を決める余裕はなく、いつも今日は食事があるか否かの心配だった」という。  戦後も日本人移民の生活は苦しく、「不正義」が省みられることはなかった。

◆「賠償はいい。謝罪して」が実った

 与那城昭広さん(81)=南風原町=はブラジルの航空会社の沖縄事務所に勤め、日本人移民の帰沖の航空券手配などを担った。今回の謝罪を「ブラジル沖縄県人会がブラジル政府からの謝罪を求めて運動してきた結果だ。最後は『賠償はもういいので謝罪して』と口々に言っていた。将来にわたり二度と同じ歴史をたどってほしくないとの思い一心だった」と振り返る。  前出の新屋敷さんの「幸福」という名も、祖父が付けてくれた。帰省時には両親も自身も漢字の意味がわからなかったが、「歴史に翻弄(ほんろう)された祖父たちの思いが結実している名だと伝わった。幸福な国に、幸福な人生に、との思いを体現していきたい」と話す。  今は約270万人の日系人が暮らすブラジル。名桜大の長尾直洋准教授(移民史)は「ブラジルは戦後、軍事政権が長く続き、国の政策を真っ向から批判できなかったが、左派政権への移行で検証の機会が訪れた」と説明する。世界で移民に対する排外主義が広がる中、戦後80年を前に実現した謝罪の意義とは何か。「戦中戦後の名誉回復がなされた成果はもちろん、今後の教訓も含め、大変意義深い謝罪だ」と指摘した。

◆ドミニカ移民に「しらを切った」日本政府

 戦後も日本人移民は続いた。海外からの引き揚げ者の増加に困った日本政府が南米などへの移住を推進。その中で「最悪のケース」と言われたのがドミニカ共和国への移民だ。1950年代、日本政府の募集に約1300人が応じた。ところが、ただでもらえるはずの農地はもらえず、あてがわれたのは荒れ地だった。

ドミニカ共和国移住者の嶽釜(たけがま)徹さん(左)、小市仁司さん(右)にねぎらいの言葉をかける小泉純一郎首相(当時)=2006年7月21日(立浪基博撮影)

 残留移民は2000年以降、国への損害賠償を求めて提訴。東京地裁は政府の法的責任を認める一方、除斥期間を過ぎたとして請求を棄却したが、政府は謝罪談話と特別一時金を支給することを発表し和解した。  弁護団長を務めた菅野庄一弁護士は「訴訟では政府はしらを切り続けた。謝罪をしたのは判決が責任を認めたからだが、補償金は不十分だった。彼らは当時も困窮した生活を続けており、被った損害には到底及ばなかった」と振り返る。

◆レーガン政権下で日系人収容に謝罪

 現地の日系社会はその後も根気強く補償を求める交渉をドミニカ国内で続けた。その結果、同国政府は2022年から、土地補償金の支払いを始めたという。「現地の人たちの努力の成果で、日本政府は何もしてくれなかったと思う」

バイデン米大統領=2022年12月

 日本の冷たい姿勢と対照的なのは米国だ。太平洋戦争中、ここでも日系人は日本軍に協力する「敵性外国人」とみなされ、米国政府は約12万人を強制収容した。戦後、名誉回復を求める運動が広がり、レーガン政権下の1988年、「市民の自由法」が成立。米国政府は謝罪し、補償金を支払った。  京都産業大の野崎京子名誉教授はカリフォリニア州出身の日系3世。2〜5歳の間、強制収容所で過ごした。「1992年、補償金2万ドルと米国大統領から『重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めます』という謝罪の手紙を受け取った。米国は過ちを犯し、長い時間がたったかもしれないが、正義、民主主義を貫こうとした」

◆トランプ氏復帰?「大きな分岐点」

 同志社大の和泉真澄教授(米国政治文化史)は「米国政府が過去の政策を人種差別と認めて集団補償した初のケースで、非常に大きな意味があった」と述べる。

トランプ氏=2024年7月18日、米ウィスコンシン州ミルウォーキーで

 しかもこれで終わりではない。今年2月にバイデン大統領があらためて国家の過ちを認めて謝罪する声明を出すなど、さまざまな機会に政治家らが謝罪や反省を口にしている。  和泉氏は「アメリカの強さはアメリカの多様性の中にあるから、過去の過ちを語り、議論を活発化することで未来につなげようという姿勢が、リベラルな政治家だけでなく米国社会の中にもある。みんながアメリカ人で、誰かが主で誰かがマイノリティーであることにならない社会を目指してきた」と述べる。  だが、それが「移民は犯罪者」などと公言したトランプ氏の登場以降揺らいでいるという。奴隷制や人種隔離政策など、より規模が大きな過去の人種差別に米社会がどう向き合うか。今秋の大統領選は「大きな分岐点になる」とみる。

◆過去に向き合えるかが問われる

群馬の森の朝鮮人追悼碑。2024年2月に撤去された

 日本は韓国との間で元徴用工問題を抱える。韓国で日本企業に賠償を命じる判決が続いているものの、日本政府は「解決済み」との姿勢を崩さない。「韓国徴用工裁判とは何か」の著書がある近代史研究者の竹内康人氏は、今回のブラジル政府の謝罪について「重大な人権侵害は、80年たっても問われ続ける」と意義を述べる。  「日本政府の基本的な考え方は、当時の植民地支配は合法、その下での動員も合法、よって『強制労働ではない』となる」と竹内氏。その結果、「強制連行」や「強制労働」の記述は教科書から消え、群馬県では朝鮮人追悼碑が撤去された。「日本政府も、過去に向き合い、新しい関係を築くきっかけになってほしい」

◆デスクメモ

 外国にルーツを持つ人々に、国を代表して頭を下げる。日本では見慣れない場面だが、ブラジル政府関係者は堂々として表情に曇りがない。率直に過ちを認める態度は、両国の距離を近づけるだろう。外国人が増えている日本の指導者もぜひ参考に。相互理解が戦争の抑止力になる。(本) 

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