◆「これは他国の侵略から自国を守る戦いではない」
タイの地方都市にある集合住宅の一室で、ミャンマー人男性のブルース(25)とミン(20)は同居している。「徴兵制は社会の分断を深める」と批判するブルース=タイ国内で
ミャンマーの人道支援関係のNGOで働いていたブルースは3月上旬、タイにひそかに出国した。 2月10日、ミャンマー国軍は18〜35歳の男性と、18〜27歳の女性に対する徴兵制の実施を突然発表した。 2021年2月のクーデター後、ミャンマーでは内戦が続く。国軍は昨年10月、北東部シャン州で少数民族武装勢力の一斉攻撃を受けて以降、劣勢にある。 「明らかに間違っている。軍は権力維持しか考えていない」。ブルースは徴兵制に怒りを露(あら)わにする。「これは他国の侵略から自国を守る戦いではない。国民同士を戦わせるのか」 徴兵対象は地区ごとに抽選で決まる。ブルースは「いつ選ばれてもおかしくない」と危機感を覚え、国を出た。◆「戦場で命を失うよりは」と逃亡 ワイロを払う若者も
徴兵制を巡り、殺伐とした話がブルースに届く。 最大都市ヤンゴンに住む20代の友人男性は4月、徴兵対象に選ばれた。地区の代表に100万チャット(約4万5000円)の賄賂を払い、見逃してもらった。ところが約1週間後、再び対象に選ばれた上、3〜5倍の金額を代表に要求された。男性は「金づるにされる」とタイに逃れた。 30歳前後の友人男性は5月、対象に選ばれた後、首をつって命を絶った。男性には定職がなく、国外への逃亡資金の算段も立たず、絶望した末だったという。 一方のミンはヤンゴンで高校を卒業し、大学を目指していた。だが4月、徴兵対象に選ばれ、途方に暮れた。家族と話し合い「戦場で命を失うよりは」とタイに逃れた。 「勉強し、職に就く機会を失った」。ミンはブルースとともに、国軍幹部らに憤りの矛先を向ける。「自分の親族は海外の良い大学に留学させるのに、私たちからはチャンスを奪う。同じ国民なのに不公平だ」◆将来の国造りのため勉強は続ける…でも住む場所はまもなくなくなる
ミンもブルースも、タイでは不法滞在者だ。 ブルースは独学で、高卒程度の学力を証明する米国の認定資格「GED」の取得を目指している。英数理社の4教科の試験に合格すると、米国に限らず、GEDを採用している大学に進める。2科目には合格した。早く残りの2科目も終え、タイの学生ビザを得て、大学に入りたいと願う。 「大学で勉強し、いずれ軍政が終わった時、新しい国造りに貢献する」と、ブルースは希望を語る。 ミンも「GEDを取りたい」と望む。ただ、1科目80ドル(約1万2000円)の受験料がかかる。自身に職はなく、ミャンマーの親に頼ろうにも、クーデター前と比べてチャットの実勢相場は対ドルで5分の1程度まで暴落し、余裕はない。 ブルースとミンが住む部屋は、援助団体が避難者に提供している「セーフハウス」だ。家賃は無料だが、ブルースは表情をやや厳しくして言った。「そろそろ規定の入居期限を迎える。その先は自力で住む場所を確保しないといけない」◆正規の就労資格がなく、月給1万2000円で労働
ヤンゴンでジムのトレーナーをしていたジェームス(19)は徴兵制実施の発表から2日後、姉がいるタイ北西部の町へと逃れた。身長180センチで筋肉質。「大柄で若い男なので目を付けられるかもしれない」と危惧したからだ。「ミャンマーでは常に軍のプレッシャーを感じていた」と語るジェームス=タイ北西部で(一部画像処理)
「徴兵制に反発し、友人5、6人がPDF(国民防衛隊)に入った」とジェームスは明かす。PDFは民主派の武装組織。友人らの部隊はミャンマー東部カイン州で、少数民族カレン人の武装勢力とともに国軍と戦っている。 「自分以外に、知人20〜30人がタイに逃れた。国境地域のほか、数人は首都のバンコクに職を探しに行った」とジェームスは言う。 ジェームスは今住む町のレストランで接客の仕事を見つけた。朝から晩まで働き、月給3000バーツ(約1万2000円)。正規の就労資格がないためだろう。1日300バーツ余りのタイの最低賃金からすると安い。 それでも母国に戻る気はないという。「常に軍政に行動を監視される生活は嫌だ。ミャンマーのことは時々思い出す。だが、それはクーデター前、自由に出歩けた時代の風景だ」◆避難民キャンプにも若者たち 頼りの支援が細っている
人権団体によると、クーデター後、国軍に市民5500人超が殺され、計2万7000人超が拘束された。国連の推計では、約300万人の国内避難民が生じている。そのほか多くの人が国外に避難している。 タイとミャンマーの国境地域には多数の避難民キャンプが形成されている。ここにも徴兵を拒否する若者たちが逃げ込んでいる。国境地域の避難民キャンプに逃れたソー。「今は戻る気がない」と話す
大学生だった男性ソー(26)は3月以降、キャンプの一つに身を隠す。「国軍に協力したくない。でも戦争自体が嫌なのでPDFにも入らなかった」 ソーが住むキャンプには現在約260人が暮らす。代表者の女性によると、徴兵されるのを嫌って逃げてきた若者らが、20人ほどいるという。「6、7月に4人ずつ。今月に入ってからも逃げてきている」 国境地域のキャンプには国軍の支配は届かないものの、生活は楽ではない。住居は竹で壁を編み、木の葉で屋根をふいた小屋。電気やガスは当然通っておらず、水は井戸から。食料は民間団体などの援助に頼る。女性は先行きに不安を抱く。「ミャンマーの各地で戦闘が起き、避難民が増えているため、このキャンプへの支援が減っている」◆失敗を認めない国軍 国に残るも地獄、逃げるも地獄
ミャンマー近現代史が専門の上智大名誉教授、根本敬は「国軍は負け戦を続け、投降者や戦死者が発生し、おそらく数万人単位で欠員が出ている。志願兵やクーデター後に結成させた民兵組織では穴埋めできず、悪あがきのように徴兵制を施行した」と現状を分析する。 背景には国民と乖離(かいり)した国軍の姿勢がある。「国軍はクーデターから1カ月程度で国民の抵抗を抑え、1年以内に総選挙を実施し、軍系の政権を樹立する戦略だった。ところが、国民の反発があまりに強いため、戦略が崩れ、その場しのぎの戦術を繰り返している」 計算違いは今も続く。今月、国軍は北東軍管区司令部があるシャン州ラショーを少数民族武装勢力に占拠された。「徴兵制施行後も劣勢を回復できていない」 国軍は不利を認めたくないかのように、空爆など強硬な手法で抵抗勢力への攻撃を続ける。徴兵対象の若者を拉致し、強引に引き込む事例も報告されている。 根本はこう危ぶむ。「だれも得をしない徴兵制だ。残るも地獄、逃げるも地獄で、国外に逃れた若者も万々歳の状況ではない。ミャンマーは若い頭脳と労働力を失い、国力が衰えていく」(敬称略、一部仮名)◆デスクメモ
国の統計によるとミャンマーから日本への入国者数は昨年1年間で4万8000人弱と前年比2倍に急増。徴兵開始後も加速しているという。同胞に銃を向けたくないという心情は当然だ。就労や学業を志す若者は身近にもいるかもしれない。戦場にいなくても想像力を持ち続けていたい。(恭) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。