上海の日本人学校(補習校)で1980年代後半の1年間、教壇に立った。児童数は約50人とまだ少なく、5〜6年生は複式学級だった。

北京日本人学校の運動会

 教室は旧フランス租界の淮海(わいかい)路に面したマンション内にあった。体育の授業は500メートル近く離れた在上海の日本総領事公邸の庭を借り、サッカーやドッジボールに興じたことが思い出される。  最も心を砕いたのは児童を引率し、学校と公邸を往復すること。人混みの中で騒ぐ子どもたちを、上海の人たちは温かく見守ってくれた。冬場も半ズボン姿の太めの男児は人気者で、上海語で声をかけられた。「元気だねぇ」「寒くないか?」。体を軽く触られ褒められる場面もあった。  だからこそ広東省深圳(しんせん)での日本人男児殺害の一報には耳を疑った。同時にむかしの「教え子」の顔が浮かんだ。登校中の児童が刺殺されることなど絶対にあってはならない凶行だ。子どもを何より大切にする中国で、なぜ…。両親の無念さは計り知れず、級友や教師陣の悲痛な気持ちを思うとやり切れない。  上海出身の友人は「良識ある中国人はみんな怒っている」と話して絶句。深圳の学校前に中国人が手向ける花束が絶えないことも理解できる。

2005年4月に起きた北京の反日デモ

 中国では2005年と12年に大規模な反日デモが発生した。前者は日本の国連安保理常任理事国入りが取りざたされた結果、ネット上で反対運動が急拡大。北京の日本大使館は「愛国無罪」を叫ぶ数千人の大学生に囲まれ、石と卵で多くの窓ガラスが割られた。途中から群衆が交じって過激になり、日本料理店は破壊、日本車は放火された。  この際も中国で暮らす日本人は萎縮した。日本人学校からは日本語を控えるよう連絡があり、警備が強化された。  12年は日本政府による尖閣諸島の購入問題が発端だった。大規模デモは9月18日まで4日間も続いた。同日は1931年に旧日本軍が満州事変(柳条湖事件)の戦端を開いた日であり、中国人の怒りはピークに達していた。  しかし、同じ9月18日に起きた深圳の事件は最悪の結果を招き、これまでの反日活動とは意味合いが全く異なる。

2005年4月に北京で起きた反日デモ

 事件の翌日、中国専門家で米プリンストン大のペリー・リンク名誉教授は日本記者クラブで講演し、柳条湖事件に言及。「日中対決になるような図式で捉えたり、煽(あお)ったりしてはならない」と語った。  さらに「(殺害事件は)中国政府が国民の感情、政治思想を利用した末に起きた。ふつうの中国の人々に対し(日本を)憎悪する気持ちを抱かせた」と述べ、中国共産党の一党支配を批判した。  中国では10歳の誕生日を盛大に祝う慣習が残る。10歳まで元気に成長すれば、ひと安心という親心もある。親類一同や友人らをレストランに招いて円卓を囲む光景はよく見られる。悲しすぎるが、亡くなった男児は10歳だった。 

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