2024年のノーベル平和賞に選ばれた「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)。愛媛県内で活動するメンバーの1人が、ノルウェーで開かれる授賞式に出席した。
「胎内被爆者」として核兵器廃絶を訴え続けてきた松山市在住の松浦秀人さん(79)だ。被団協の代表理事を務める松浦さんに、核なき世界への思いを聞いた。

母の目を通して見た広島 消えない記憶

松浦さんは、広島に原爆が投下されたとき、母・ユキコさんのお腹の中で被爆した「胎内被爆者」だ。

この記事の画像(8枚)

直接的な熱線や爆風の被害を受けていなくても、その影響は今も残り、松浦さんの人生に暗い影を落とし続けている。

松浦さんは「核兵器は再び使ってほしくないというのが、私たち被爆者の願いです」と、切実な思いを語り、当時母が目撃した光景について「畑を越した向こうは火柱が立っていて、真っ赤に焼けていて。そこからぞろぞろ落ち延びてくる人たちが、黒いアリの群れのように母の目には当時映ったらしいんですけど、着物の裾のような感じで、それは実は皮膚が焼けただれて、垂れてるんです」と、凄惨な様子を伝えた。

結婚と出産 核の影に怯える日々

松浦さんは「結婚する時点では、やっぱり、もしかしたら子どもに遺伝的な影響があるかなと思ったので、結婚すること自体にためらいや不安がありました」と、当時の心境を明かす。

さらに、「第一子のときはとても不安でした。出産予定日が近づくにつれて不安が増してきて、妻に持ちかけても不要な不安感を妻に抱かせるだけですし、母に伝えたらなんとなく母を責めるように思われても、そういうつもりはさらさらないわけですけど…」と、当時の複雑な心情を吐露した。

時空を超える核の脅威 消えない不安

松浦さんは「私いつも口癖のように申し上げてるんですけど、原爆被害、核兵器・放射線の被害というのは、時間と空間を越えて広がり続けるもの。遺伝的影響は結果として現れていないとしても、もしかしたらというような不安を抱えながら人間を傷め続けるというのが核兵器だと私は思います」と訴える。

松浦さんは1977年、被爆者健康手帳を取得したのをきっかけに被団協に参加し、現在も活動を続けている。

「だんだん語り部活動をする人がいらっしゃらなくなったので、最近では母の被爆体験を中心にしながら、広島でどんな出来事があったのか、私が聞いた限りで知っている限りのことをいろんなところでお伝えするということに取り組んでます」と、活動内容を語る。

ノーベル平和賞が照らす未来 愛媛から世界へ

「最年少の被爆者」として活動してきた松浦さんも今や79歳。先細りする語り部活動に不安を感じつつも、今回のノーベル平和賞の受賞が少しでも「核兵器廃絶」運動の広がりにつながればと期待を寄せる。

「こんな苦しいことが再びあってはいけないんだと。『No more』と叫び続けて、再び原爆・核兵器を使うなと。誰の頭上にも原爆を落としてはいけないんだということは共通の認識、共通の要求ですから、それを柱にしながら可能な範囲でいろんな活動をしていく」と、今後の活動への決意を語った。

松浦さんは12月10日、ノルウェー・オスロで開かれた授賞式に参加した。
松浦さんは「ウクライナとかガザで核兵器が使われる危険性があるので、そういうことをしてはいけないんだという警鐘をならすために、ノーベル委員会が私ども日本被団協に授与したんだというふうに感じた」と、受賞の意義を語る。

平和の使者として、オスロへ

松浦さんは授賞式が行われたオスロで「『No more ヒロシマ・ナガサキ』再び繰り返してはいけない」と訴えた。

愛媛から世界へ、そして未来へ。
松浦さんたち被爆者の切実な願いは、今こそ世界中に響かせるべき重要なメッセージだ。私たちは、この声に真摯に耳を傾け、平和の尊さを次の世代へと確実に伝えていかなければならない。

(テレビ愛媛)

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。