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<SNSの時代、人間に備わった承認欲求にどう上手く向き合えばいいのか? 僧侶で思想家の松波龍源さんが送る「あなたの価値を決めるのはあなた自身」>

僧侶の松波龍源さんは「SNSは他者からの評価が数字で可視化されることで、自己の評価が完全に他者基準になり、自分で評価することを放棄し、自分を実態以上に『盛ってしまう』現象が頻発する。

承認欲求を満たすためには、自分の存在を他者を通じて認知することだが、それがグッドなのかバッドなのかは、自分が決めればいい」という――。

※本稿は、松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

【注目されたいと思うのは、ごく自然なこと】

注目されたいという承認欲求は、非常に手ごわく厄介なものです。もともと人間が持つ欲求の一つではありますが、SNSの普及で「バズる」という現象が起こるようになってから、それまで以上に、私たちの生活のウエイトを大きく占めるようになりました。

承認欲求は、潜在意識領域のものです。自分自身を突き動かす衝動といってもいいでしょう。

言ってみればわれわれは、潜在意識でSNSを使っています。「つい」スマホを見て投稿してしまうのであって、仕事としてアカウントを運用している場合でない限り「これは確実にバズらせたい」などと意識的にSNSをすることはあまりないですよね。

初めはビジネスのための利用だったとしても、自分の投稿にどんな反応があるか気になって、ネットの世界に意識が持っていかれることも少なくないでしょう。

中には、目立ちたい思いがエスカレートしてとんでもないことを言って「炎上」してしまったり、下手をすれば刑事事件に発展したりするケースも、残念ながら見受けられます。

これは潜在意識から湧き出てくる承認欲求に、理性が完全に敗北した状態です。

ではこの承認欲求を、仏教ではどのように解釈できるでしょうか。まず「(他者に)承認させたい私」について考えてみます。

他者に承認させたいという欲求はなぜ湧き上がってくるのか。それは、洋の東西や時代を問わず、人間に備わった根源的な欲求だからです。

【見えにくかったものがテクノロジーで可視化された】

仏教では、「私」という存在は他者があって初めて成り立つと考えます。一滴の水をイメージしてください。空気中に存在しているときは「その一滴の水」として認識されますが、海や川に流れてしまえば、その一滴を特定することができなくなります。

『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』より

一滴の水が消えたわけではありませんが、周りが同じ水だと、認識されなくなってしまうのです。

これと同じで、「私」も「私ではないもの」に囲まれているがゆえに認識されます。

つまり、自分の存在を確認するには、自分以外の他者に囲まれて、他者からの認知のリフレクション(反射)として確認するしかありません。つまり、他者に承認させたいという欲求は自分を確立したい欲求とほとんどイコールで、真理に則ったことなのです。

ですから、ちょっと突飛なことをして注目を集めようとするのは、不思議なことではありません。とはいえ昨今のSNSを取り巻く状況に多くの人が違和感を抱いているのは、一個人の言動が影響を及ぼす範囲が、テクノロジーによって桁違いに広く・速くなったからでしょう。

おそらく百年前も、発信力を持った人物が承認欲求からくる言動で事件を起こしたケースはあったでしょう。けれどその数は非常に少なかったはずです。

人間の構造は昔から変わらないのに、今その数が圧倒的に増えているのは、これまで見えにくかったものがテクノロジーで可視化された結果といえます。

【SNSでつい「盛ってしまう」のはなぜか】

では次に、なぜ人間の承認欲求がここまで膨らんでしまうのか考えてみましょう。

承認欲求を満たすためには、他者から承認されたことを確認する必要があります。前述の通り、自分の存在は他者を通じてしか認知することができません。

それはそうなのですが、他者からのリフレクションとしての自分を認知したうえで、それを評価し、確立する作業をおこなうのは自分であるべきです。

ところが現代は、一人一人のその作業が圧倒的に足りていません。言うまでもなく、その大きな理由の一つがSNSです。

「いいね」が何個ついたとか、動画の再生回数が何万回を超えたとか、他者からの評価が数字で可視化される。まるでその数字が、その人の戦闘力を表しているかのようです。

自己の評価が完全に他者基準になっていて、自分で評価することを放棄している。自己の確立を他者からの承認(SNSの「いいね」など)のみに依拠しているから、自分を実態以上に「盛ってしまう」現象が頻発するのですね。これが現代の大きな問題だと思います。

これまで何度か申し上げてきたように、仏教では唯心論、すべてのものごとは自分の心の中にしかないという考えが基本にあります。

「私」という存在が今ここに現出するのは、さまざまな因果関係の結果ですが、それに意味づけをするのは自分です。すなわちグッドなのかバッドなのかは、自分が決めればいいのです。

にもかかわらず、それをすることなく「SNSで『いいね』がたくさんついたからグッドだ」とか「罵詈雑言を浴びせられたからバッドだ」、行き過ぎると「私なんて生きている価値がない」と決めつけてしまうのは、自分の認識力を軽視しすぎています。

本来、他者から反射されるのは「私」という存在そのものであって、認識であってはいけないはず。認識の領域までも他者からの反射に依存してしまう態度が、現代の「バズの病」を引き起こしているのではないかと感じます。

【釈迦牟尼だって文句を言われていた】

ここで参考にしたいのが、原始経典に記された釈迦牟尼の言葉です。

何をしても、何かをしたといってある人は非難する。何もしなくても、何もしなかったといってある人が非難する。何かをしてもしなくても、非難する人は非難する。だから他者の声なんて気にせずに、自分の心と向き合いなさい。

同じような言葉を、みなさんも聞いたことがあるでしょう。私がこれに救われたのは、言葉の内容そのものよりも、これを言った人が釈迦牟尼であるという事実です。

あのお釈迦様でさえ、何かといっては文句を言われケチをつけられていたんだ。称賛しかされなかったのであれば、こんな言葉は出てきませんから。そう思えば、自分が文句を言われるのなんて当たり前のことだ、と思ったのです。

結局、釈迦牟尼の出した答えは「気にするな」でした。他者からの意見や批判は真摯に受け止めるべきですが、あなたの価値を決めるのはあなた自身なので、強く生きなさいということです。

何かをしても、しなくても、一定の確率で誰かから文句を言われるんだ、くらいに思っていればいいのです。

ただし、そのためには賢くなくてはいけません。だから仏教哲学を学ぶのですね。「俺イケてるし」と無知蒙昧むちもうまいな状態でいることとは違います。

言ってみれば、称賛も非難の裏返しです。称賛されたときは素直に喜べばいいでしょう。けれどその喜びのあまり、自己認識の軸足を自分から他者に移し替えてしまうと、自分という存在が足場から崩れ落ちてしまいかねません。

褒められたりけなされたりするのは、そのときどきの状況でしかないのですから。

バズの病に取りつかれそうな人は、これを意識してみてください。

【SNSとうまくつき合うキーワードは「利他」】

ここまでお話ししたように、「他者に承認させたい」という欲求が湧き上がってくるのは人間として自然なことです。それを踏まえたうえで、私たちはどう行動すればいいのでしょうか。

仏教的に考えると、その答えは「利他」です。

利他とは文字通り、他者の利益のことです。抜苦与楽ばっくよらくという言葉があるように、他者の苦しみを除き、喜びを与えるように振る舞えば、それは自分の喜びにもつながります。抜苦与楽の道は、自利と利他が一致している状態です。

なぜ、他者の喜びが自分の喜びになるのか。

これまでお話ししてきたように、自分は他者の存在があってこそ成り立ちますから、「私」の利益と他者の利益は一致します。つまり、他者の利益を考えることが、自己の利益を考えることにもつながるのです。

うわべだけで相手を褒めるような一時的な幸せではなく、根源的な幸せを目指して行動すれば、社会そのものが良くなり、回りまわって自分も受益者になることができます。

これをSNSに当てはめると、発信をする際は、利他的な情報を心がければいいのです。たとえば本書は、ポッドキャスト番組がもとになっています。自分で言うのもなんですが、あの番組は利他的な発信だったと思います。

【人間の心はすごく敏感に繊細に、発信の裏側にあるものを感じ取る】

まず私自身、番組でお話しするのが楽しい。そしてリスナーの中には、その内容を役に立ててくれる人もいるでしょう。中には文句を言う人も出るかもしれません。

それは私にとって取らなくてもよかったリスクですが、「聴いてよかった」と思う人が一人でもいれば、私はじゅうぶん満足です。

その満足の基準は再生回数が伸びるかどうかではないため、それに心をかき乱されることもありません(企画者にとってはビジネスですから、そうも言っていられないでしょうが)。

反対に「こう言えば私の評価が上がるだろう」と自分だけの利益を目的にして発信すると、たとえメディアの仕組みにうまくはまってバズったとしても、得られるのはその瞬間の満足だけで、むしろ空しくなります。

これを我利我利(がりがり)亡者といったりします。

私は武道をするので、ときどき武道系の動画を見ることがあります。

その多くが「誰かの役に立てば」という思いで作られている一方で、ときどき「俺はこんなことができるんだ、すごいだろう」というドヤ感が透けて見える動画に出くわすこともあります。そういうコンテンツを見たときは、あまりいい気持ちがしないものです。

このように、人間の心は舐めたものではありません。すごく敏感に繊細に、発信の裏側にあるものを直感的に感じ取ります。

ですからそれをきちんと認識し、人間の認知に畏怖の念を持って「自分だけでなく、他者の喜びにもつながるか」を基準に発信すればいいのではないでしょうか。それが後々きっと自分のためにもなります。

もしそのとき周りから批判されたら、受け入れつつも「気にするな」というスタンスでいればいいのです。釈迦牟尼も、そう言っているのですから。

松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』』(イースト・プレス) ※当記事は「PRESIDENT Online」からの転載記事です。元記事はこちら。

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