ベネチア・ビエンナーレは、世界で最も名高い美術の展覧会の一つである。4月に始まった第60回は「至るところに外国人」をテーマに11月まで開催中だ。88カ国から300人を超える数のアーティストたちが、各国のパビリオンで展示を行う。
開催地の威信をかけたイタリア館も4月19日、ジェンナーロ・サンジュリアーノ文化相がテープをカットして開幕した。キュレーターのルカ・チェリッツァさんが監修し、マッシモ・バルトリーニさんのインスタレーションが展示されている。「Due qui/To Hear」と題された作品は、「空」と「満」をテーマとした2つの空間からなる壮大なもの。1体の仏像が置かれているだけの空っぽな一室と、建材の鉄管が無数に組み合わされて部屋をいっぱいにしたもう一つの空間が、対照的に配置された。
同館のメインスポンサーを務めるのは伊皮革ブランドのトッズだ。「私を常に駆り立ててきたのは、自分たちが持つ幸運の一部を社会に還元できる何かを考え出すことでした」と会長のディエゴ・デッラ・ヴァッレさんは話す。中でも「芸術への支援は、当社の企業理念の一つ」。これまでにもローマのコロッセオの、そしてこれから始まるミラノ市庁舎の修復支援などを精力的に行っている。同社はこのほど株式を非公開化し、今後の方向性に注目が高まっている。このタイミングでのベネチア・ビエンナーレの支援は、芸術とともにある姿勢を改めて世に印象づけた。
支援はトッズにとっても得るところが大きい。ビエンナーレには各国からアーティスト、コレクター、美術画廊の人々などが集まってくる。「ベネチアおよびグローバルなコミュニティーと有意義につながる機会を得ることができます」とデッラ・ヴァッレさん。またブランドを芸術の支援者として打ち出すことで「顧客との間により深い感情の絆を築くことを可能にします」。
イタリア館の開幕時の文化相のスピーチは「伝統を振り返りつつ、未来を見据える」というメッセージを伝えた。今回のビエンナーレ全体を通じても、物質文明の持続不可能性を思わせる展示が目立つ中、各地に伝わる伝統的な手仕事を生かした展示の明るさも際立っていた。先住民族の色とりどりのビーズ細工を生かした米国館は好例だ。
靴工房が発祥のトッズは大規模な芸術支援と並行し、手仕事の価値も訴え続けてきたブランドだ。「手仕事の伝統は文化遺産。絶えさせることがあってはならない」とデッラ・ヴァッレさん。ビエンナーレとは別に、その開幕と合わせ、イタリア館に近接した建物で大イベント「The Art of Craftsmanship」を開いた。ベネチアは吹きガラスなど様々な伝統技術が継承される街だ。各分野の職人11人が一つの建物に集合し、底にゴムの突起の並んだトッズを象徴する靴「ゴンミーニ」を題材に、技術を生かし自由に表現してもらうという企画である。
吹きガラス職人のロベルト・ベルトラーミさんはガラスの、金箔職人のマリーノ・メネガッツォさんは見事な金色のゴンミーニを作製した。メネガッツォさんの靴は金箔の貼り合わせ部分が全く見えないばかりか、外で履いても問題のない堅牢(けんろう)度だという。そのほか、仮面やランプなどの製作技術をもつ者も、ゴンミーニから発想した作品を展示した。
会場ではトッズの靴職人も腕を披露した。ゴンミーニの100をも超える製造工程で、機械を使うのはわずか3つ。残りは全て手仕事による。デッラ・ヴァッレさんも「これ以上は不可能というところまで手仕事による作業で作られています。手仕事が当社にとってのみならず重要であることを、世の人々に再認識してもらいたい」と説明する。
このイベントは、先進技術が主導する現代の製造業において手仕事の価値はなおさら強調されるべきものであることを伝える。また、職人の手作業と細部への配慮が製品の質を遥(はる)かに豊かにすることも示す。しなやかな一枚の革が、職人の手で靴の形を成していく様子は、つい見入ってしまうほど見事なものだ。複数の革を縫い合わせていく工程では、糸を引きすぎず、また緩めすぎず、正しい塩梅(あんばい)が要求される。それでなければ甲の部分は縮んでしまったり、あるいは緩くなってしまったりするだろう。縫い合わせる糸の引き具合こそが、その職人の熟練度を語る。
観客は各々(おのおの)、職人に質問を投げ、答えを受ける、と開かれた会話を楽しんでいた。夜にはトッズ主催の晩餐(ばんさん)会が、ティントレットの天井画が圧巻の歴史的建造物「スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ」で開かれた。
ミシュラン二つ星のシェフによる料理とともに、盲目の歌手アンドレア・ボチェッリさんは空間の大きさをものともせず、体全体が楽器として震えるほどのテノールを披露。一連のイベントは人間の体がいかにすばらしい仕事をなし遂げるかを、情報ではなく感動として知らしめた。華やかなデザイナーブランドではなく、工業生産化が進む中でも頑(かたく)なに手作業を守ってきたトッズ。その価値観と時代が合致してきたことを、春のベネチアは伝えていた。
ジャーナリスト 矢島みゆき
Tassili Calatroni撮影
[NIKKEI The STYLE 2024年5月19日付]
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