父は1年以上前に散歩に出たまま今も帰ってこない。認知症当事者である長崎市新中川町の坂本秀夫さん(74)は2023年4月、行方不明になった。捜索を続けてきた長女の江東愛子さん(46)は父が無事に戻ってくる日を待ちながら、NPO法人の設置を決めた。同じ境遇で苦しい思いをしている各地の家族がつながり、安心して胸の内を話せる場をつくるためだ。
警察庁は4日、認知症が原因で行方不明になったとして23年に届け出られた件数を1万9039人と公表した。多くは当日に見つかるものの、坂本さんのように長く行方が分からない人もいる。その一人一人に帰りを待つ家族がいる。
散歩に出かけ行方不明に
坂本さんは市内の洋食店で長年腕を振るったシェフだった。12年に若年性アルツハイマー型認知症と診断された後も6年ほどは仕事を続けた。
行方不明になったのは23年4月16日。認知症になった後も穏やかな暮らしが続いていた坂本さんは自分の名前や住所を伝えることが可能で、携帯電話を使って会話もできた。散歩に出て自宅に帰れないことはそれまで一度もなかった。
この日は日課の散歩をするために午後4時ごろ家を出た。ところが、夕食を取る午後5時ごろになっても戻らない。心配した妻の悦子さん(76)が携帯電話にかけると、こんな言葉が返ってきた。
「今、帰ってきよる」
いつもと違う強い口調で電話はすぐに切られた。同じようなやりとりが3回ほど続いた後、電話はつながらなくなった。
悦子さんは午後7時前に、警察に連絡した。まもなく警察による捜索が始まったが、手がかりとなるものは見つからなかった。
4日目、捜索が打ち切られた。その後も愛子さんら家族は近くの山などにも入って捜し続けた。自治会の掲示板にビラを張り、目撃情報があれば県外にも駆けつけた。ネット交流サービス(SNS)も活用して情報を求め続けた。
長崎市長とも面会
長崎市には行方不明になった認知症の人の情報を介護事業所などに配信して捜索の協力を求めるシステム「SOSネットワーク」がある。だが、坂本さんの家族がその存在を知って情報を配信したのは行方不明から3日後。さらに、そのシステムで県外にも情報の配信先を広げられることを知って手続きを取ったのは約半年後だった。
愛子さんは23年11月、鈴木史朗・長崎市長と面会し、認知症当事者を捜す家族にできる取り組みを広く周知することなどを求めた。
その声を受けて市は動いた。行方不明になった際の市の連絡先や支援内容を一覧表にまとめた「認知症のひとり歩きにより行方不明になられたら」というガイドを作って市のホームページに掲載。警察から入った情報を市の関係4部署の間で速やかに共有する体制も整えた。家族が警察に通報しながら市に連絡がない場合、市から家族に状況を確認するプッシュ型支援も取ることになった。
「見つけてあげられんでごめんね」
行方不明になってから約1年3カ月。愛子さんは言う。「もっと真剣に考えていれば防げたかもしれない。父に対して『見つけてあげられんでごめんね』って毎日思っています。一番の願いはお父さんが無事に帰ってくること。私のことを覚えていなかったとしても無事ならそれでいい」
愛子さんは仲間たちとともにNPO法人の設立準備を進めている。きっかけは自身が同じ境遇にある家族と話して気持ちを救われた経験だった。各地の家族がオンラインで話せる機会をつくりたいと考えた。支えてくれた多くの人たちに恩返ししたい思いもある。
「いしだたみ」に込めた願い
愛子さんは「自分と同じ苦しい思いは誰にもしてほしくない」と語る。NPOで相談事業をすることも検討している。手探りで捜索を続けた自らの経験を参考にしてもらい、支え合いながら安心して暮らせる地域づくりに貢献できたらと思う。
NPOの名称は「いしだたみ・認知症行方不明者家族等の支え合いの会」に決めた。「いしだたみ」は父がオーナーを務め、家族で営んだレストランの名だ。
認知症の人が安心して出かけて、無事に歩いて帰ってこられるように。家族は当たり前に「おかえり」と迎えられるように。誰もがそんな日々を続けられることを願っている。
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坂本さんは身長約150センチでやせ形。当時は紺色のトレーナーと黒色の長ズボン、黒のスニーカー、紺色の野球帽を身につけ、眼鏡をかけていた。情報は長崎署生活安全課(095・822・0110)まで。【銭場裕司】
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