数年前、小学生数人と俳句の話をした。動画の作製だったが、その際、私のような老人は小学生には見えていないと気づいた。
私は77歳です。すごく高齢でしょ。皆さんのおじいちゃんだと60代かな。皆さんはこんな高齢の老人に出会ったことがありますか。昼間、例えば電車に乗ると、ボクのような80歳前後の人がいっぱいいるんだけど。
というように話したのだが、小学生は誰もが気づいていない、と応じた。つまり眼中にないのである。道理で電車やバスで席を譲ってくれないはずだ、と納得したが、考えてみれば60代までのボクも80代の老人はほとんど眼中になかった。安野光雅さん、梅原猛さん、瀬戸内寂聴さんのような、高齢だが並はずれて活動的な人だけが例外的に見えていた。
自分の存在が小学生の眼中にないということは、さびしいことではある。でも、彼らとは異なる時空を生きている、ということではないか。例えれば、仙人とか魔法使いに近い存在が高齢者、すなわちボクたちである。
と、考えたら、さびしさなどはどこ吹く風、なんだか急にわくわくしてきた。「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」と唱えながら、春風の中を歩きたい気分になってきたのだ。ちなみに、右に引いた句はボクの作、これ、小学生に人気がある。
老人たちは積極的に、当世風な言い方をすれば、ポジティブに仙人や魔法使いになるべきだ。ポジティブは積極的という意味だが、同時に実証的という意味もある。仙人や魔法使いであることを実証すること、それがいわゆる後期高齢者のなすべきこと?
(俳人、市立伊丹ミュージアム名誉館長)
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