平安貴族たちの仕事や出世に詳しい佛教大学歴史学部非常勤講師の井上幸治氏
――『光る君へ』でも放映されていましたが、藤原道長の甥(おい)にして最大のライバルだった内大臣・藤原伊周(これちか)、その弟の権中納言(ごんちゅうなごん)・藤原隆家(たかいえ)は失脚、左遷されました。平安貴族のこうした人事はよくあったのですか?

『光る君へ』で段田安則さんが演じていた藤原道長らの父・兼家(かねいえ)は、兄の関白・兼通(かねみち)によって、大臣一歩手前の大納言・右近衛大将から大納言・治部卿(じぶのきょう)に降格されます。

この兄弟はかねてから不仲で有名だったのですが、兼通が重病で余命いくばくもない状態だった時に、兼家の牛車(ぎっしゃ)が兼通邸近くにやって来ました。平安貴族の社会では、音や飾りで誰の牛車か分かるのです。重い病の兄の見舞いにきたのかと思うと、そのまま通り過ぎて天皇の元に行ってしまいました。「次は私を関白に」というアピールです。これを知った兼通は激怒、病を押して宮中に参内、兼家を後任の関白どころか治部卿に降格する人事を行い、間もなく亡くなります。ここまで人間関係がむき出しになった露骨な左遷はさすがに珍しいですが、権力闘争から有力貴族が左遷されることはしばしばありました。

清少納言が仕える一条天皇の中宮・定子(ていし)の兄で内大臣の藤原伊周は、太政大臣(だいじょうだいじん)藤原為光(ためみつ)の娘・三の君のところに通っていました。花山法皇が三の君と一緒に暮らす妹・四の君に通い始めたのを、三の君のところに通っていると誤解します。怖い思いをしたら法皇が来なくなると思ったのでしょうか、伊周は隆家と共に脅そうとして、法皇に弓を射かけたといわれています。

さらに天皇などの許可なく臣下が行うことは許されていなかった呪術の大元帥法(だいげんのほう)を実施したこと、道長を支援していた東三条院詮子(一条天皇の母で道長の姉)を呪詛(じゅそ)したということで、伊周は大宰権帥(だざいのごんのそち)、隆家は出雲権守(いずものごんのかみ)に左遷されました。これが「長徳の変」です。伊周や隆家の処分に道長の存在が大きな影響を及ぼしたのは間違いありません。

大臣を左遷する際は、大宰府の事実上の長官である大宰権帥(または大宰員外帥=だざいいんがいのそち)、大納言以下の公卿は諸国の権守(ごんのかみ)とすることが定番でした。いずれも形式的なもので、実際に職務に就くことはありません。もちろん大宰権帥イコール左遷というわけではありません。九州を統括する大宰府の実質的な長官という有力ポストですから、多くは有力な貴族が任じられるのですが、大臣を左遷するときのポストとして使われる役職でもあるのです。

流罪と左遷の違い

――菅原道真も大宰府行きでした。応天門の変の伴善男や平治の乱後の源頼朝のように流罪になったわけではなく、「左遷」ですね。

平安時代初期、薬子の変で藤原仲成が死刑となって以降、1159(平治元)年の平治の乱まで、国家の刑罰としての死刑は行われていませんでした。地方で反乱を起こし、追討された武士の首を京都の獄門でさらしたり、貴族が家人を処刑したりする「私的刑罰」は平然と行われていましたが、いわゆる死罪ではありません。

流罪と左遷は根本的に違います。流罪は「罪」です。本人だけではなく、妻や子どもも一緒に配地に行きます。いわば家族そろっての引っ越しです。また、流罪になると1年間は強制労働しなくてはいけません。1年の服役終了後は口分田(くぶんでん)が与えられ、課役も負担しながら、現地の戸籍に編入し、その地の住民として暮らすことになっていました。実際にはこの時代には形骸化して、このような運用はされていない可能性が高いのですが、古代の律令制度の建前としてはそういうルールになっています。朝廷から帰ってきてよいというお達しが出ない限りは帰ってくることはできない。上級貴族の場合は帰ってくるケースが比較的多いですが、そのまま配所に行きっぱなしになった人も多いです。後に伊豆に流罪となった源頼朝も、何もなければそのままだった可能性が高いでしょう。

大臣から大宰権帥とするような左遷は基本的には人事異動ですから、除目(じもく)、今でいう辞令一枚で動かすことができます。政界の中心部から地方の閑職に単身赴任です。左遷する側の目的は生命を奪うことではなく、政治的に邪魔だから立場を奪うことです。政治的勝者が目的を達して、優劣が決定的になる、あるいは政局に大きな動きがあったら、人事異動の範囲で戻すことができます。

実際、伊周は翌997(長徳3)年に京都に戻ることを許され、のち正二位に昇進、大臣の下、大納言の上の席次を得て、大臣に準ずる地位を得ました(准大臣)。37歳で亡くなるまで、政界で大きな力を持つことはありませんでしたが、最上級の貴族の一員としての処遇を受けていました。

左遷・流罪になった平安貴族(一部奈良時代後期を含む) 注)井上氏への取材を基に日経BOOKプラスが作成 藤原伊周の准大臣は正式な官職名ではない

――就いている官職を解任する解官(げかん)ではダメなのですか?

解官するだけでは、本人の行動規制にはなりません。どこにいるか分かりません。京都にいることもできるし、どこかに隠れてたくらみをするかもしれません。大臣クラスの有力政治家の政治生命を一時的に奪うために最も効果的なのが、京都から地方に強制的に移動させること。そこで大宰権帥です。大宰府に行きなさい、という正式な命令を出せば中央政界から隔離できるし、現地での行動も観察できる。高位のポストだから見た目も悪くない。

なので、左遷されても政治的な危険性がなくなったと判断されたり、政界で必要な人材だと判断されたりしたら、再び朝廷で活躍することも少なくありません。隆家は長徳の変のきっかけを作った張本人ですが、帰京後に中納言となり、後に大宰権帥になっています。こちらは兄の伊周とは違い、左遷ではなく本人の希望でした。隆家は目の病を患っており、大宰府に滞在していた宋の医師による治療を望んでいたといわれています。大宰権帥の任期中には「刀伊(とい)の入寇」の際に指揮官として活躍し、刀伊を撃退しました。隆家の子孫はその後も明治維新まで公卿として活躍。現在までその家系は続いています。

関白だって左遷される

大臣から大宰権帥へ、公卿から地方官へという左遷であれば、早ければ1、2年。長くても数年で帰京が許されることが多いです。道長の妻・明子の父である源高明(みなもとのたかあきら)のように、そのまま都の郊外などで隠棲(いんせい)したり出家したりすることもありますが、まだ若く健康であれば、再び朝廷で活躍することも珍しくありません。

流罪となった後に大臣となった例もあります。平治の乱で死罪となった藤原信頼にくみし、阿波国に流罪となった藤原経宗(つねむね)は、朝廷に欠かせない重鎮として活躍。後に左大臣まで昇進しました。保元の乱の崇徳上皇方の中心人物で、敗死した藤原頼長の子・権中納言の藤原師長(もろなが)は土佐に流罪になりますが、6年後に赦免されると、後白河法皇の側近として出世街道をまい進。1177(安元3)年には太政大臣となります。摂関家に近い生まれで身分も高く、そのうえ音楽に才能があったことがよかったのでしょう。しかし、再び政争に巻き込まれ、太政大臣となった2年後には平清盛のクーデターにより、再び解官。尾張国に流罪となります。3年後に許されますが、その後は政界に復帰することはありませんでした。波瀾(はらん)万丈にも程がある人生です。

平清盛のクーデターでは、関白だった松殿基房(まつどののもとふさ)も大宰権帥に左遷されました。基房は出家したため、現地への移送は中止となり、備前国(岡山県)にとどまりました。翌年帰京を許され、その後は儀式や故実に通じた摂関家の長老として、承久の乱後まで90歳近くまで長生きしました。

大宰府で無念のうちに菅原道真が亡くなったのは、左遷から2年後の903(延喜3)年2月でした。翌年3月に道真を左遷した左大臣藤原時平が推す保明親王(やすあきらしんのう)が皇太子となっています。道真が生きていれば、その後に帰京を許された可能性はかなり高いと思います。道真があと1年頑張っていたら、晩年、違う余生があったかもしれません。

井上幸治氏

スキャンダルで「活動自粛」した光源氏

――物語の話になりますが、『源氏物語』で光源氏は須磨に蟄居(ちっきょ)しますが、流罪や左遷ではないですね。

光源氏は兄の朱雀帝の最愛の女性朧月夜(おぼろづきよ)との密会現場を、政敵で朧月夜の父でもある右大臣に見つけられます。さらに右大臣一派に、源氏が後見人となっている東宮(皇太子)を帝に立て、謀反を企てているとの噂を立てられ、官職を解かれます。

このままでは罪を受け、流罪とされるのではないかと考え、光源氏は自ら須磨に赴きます。処分を受けたわけではなく、いわば勝手に謹慎生活に入ったのです。反省して謹慎している高貴な立場の人に重ねて処分を加えるのをはばかる雰囲気を狙ったのかどうかは分かりませんが、スキャンダルを起こした有名人が「活動を自粛」するのと通じるものがあります。

話がそれますが、この「須磨」の巻には、貴族社会のリアリティーをよく理解して描写しているなと感じるところがあります。源氏が蟄居したのが「須磨」であることもその1つです。須磨がある摂津国(大阪府と兵庫県の一部)は、古代の行政区域の中心地域にあたる五畿内にあります。『源氏物語』では「須磨」巻に「明石」巻が続き、重要人物である明石の御方や明石入道など明石ゆかりの人物も登場します。明石は現代では同じ兵庫県ですが、こちらは播磨国で畿内ではありません。厳密には平安貴族は平安京内にいなくてはいけないのですが、畿内は許容範囲として黙認されていました。播磨国にある明石は源氏が暮らす場所ではなく、「通う」場所だったのです。

須磨の巻には、光源氏の元に、親友の頭中将(左大臣の子、正妻である葵の上の兄)が訪ねてくるシーンがあります。便宜的に「頭中将」といいましたが、物語ではこの時に蔵人頭(くろうどのとう)を辞任、出世して閣僚クラスの議政官である参議となり、宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)となっています。当時、京都から須磨の往復は日帰りでは無理でした。現在の大阪辺りで一泊、2日目に須磨に着いて源氏のところに泊まり、翌日出発してまたどこかで一泊。3泊4日の旅になるでしょう。天皇の側近中の側近である蔵人頭は激務です。蔵人頭が4日間天皇の側を離れることは考えられません。

その点、宰相中将は頭中将ほど忙しくはありません。都で4日間姿が見えなくても違和感はありません。ちゃんと時間に余裕がある地位に昇進させたうえで、須磨を訪ねさせているのです。多くの平安貴族たちの仕事ぶりを見てきた紫式部は、さすがによく分かっていますね。

平安貴族たちの暮らしと文化がよく分かる! 井上氏お薦めの4冊

『紫式部の生きた京都―つちの中から』(京都市埋蔵文化財研究所監修/ユニプラン)


源氏物語誕生より1000年を記念して、(財)京都市埋蔵文化財研究所所蔵の豊富な写真や調査結果を収録。当時の社会に考古学から迫る。京都だからこそできた記念出版。

『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』 (京樂 真帆子/吉川弘文館)


平安貴族たちが移動に使った「牛車(ぎっしゃ)」とは、どんな乗り物だったのか。古記録や古典文学、絵巻物から牛車の種類(ランク)、乗り降りの作法、牛の性能、乗車定員やマナー、牛車から垣間見える貴族たちの人間関係などを再現。

『日本の傳統色』(長崎盛輝/京都書院)


実際にその正しい色を見ることができなかった文学を彩る様々な色を、色彩学者の著者が長年にわたって蒐集(しゅうしゅう)した文献や古裂(こぎれ)、染見本帳などをもとに考証。225色すべてに染料や古染法・色調や流行沿革などを収載。カラーチャートも便利。

『保元・平治の乱を読みなおす』(元木泰雄/NHK出版)


保元・平治の乱の認識を変えた一冊。これまでの武士を主人公とする通説を打破、王家・摂関家の嫡流争いと、新興貴族である院近臣(いんのきんしん)と軍事貴族の利害対立という視点から複雑にからみ合う院政期の混乱した政治状況を描いた。保元・平治の乱から源平合戦期にかけては処罰を受けた貴族も多く、平安末期の貴族たちの左遷や処分の参考になる。
  • 出版 : ユニプラン
  • 価格 : 1,047円(税込み)
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    井上幸治
    佛教大学非常勤講師。1971年京都市生まれ。立命館大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、佛教大学歴史学部非常勤講師、京都市歴史資料館館員。編著書に『平安貴族の仕事と昇進』(吉川弘文館)、『外記補任』(続群書類従完成会)、『古代中世の文書管理と官人』(八木書店)など。

    (取材・文:市川史樹=日経BOOKプラス編集、写真:山本尚侍)

    [日経BOOKプラス2024年6月14日付記事を再構成]

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