医師で作家の夏川草介さん
病院ミステリーや奇跡のドクターではない真摯な医師の成長物語

――累計330万部の『神様のカルテ』や24年本屋大賞4位の『スピノザの診察室』など、医師を主人公にした著作も多い夏川さんが初の翻訳をされた『城砦』。最初はとんでもないタイミングでのオファーだったそうですね。

よく覚えています。まさに、今から研修医の内視鏡治療指導で患者さんの大腸のポリープを切除しようというタイミングで『城砦』の担当編集者でもある日経メディカル副編集長の小板橋律子さん(当時)から、翻訳の依頼の電話がかかってきたのです。通常、医師への電話は簡単には取り次がないものです。医療者にとって日経メディカルなどマスメディアからの電話はある意味非常に恐ろしいものです。時には医療訴訟だとか、ありもしない噂が流れて記事になるなんてこともあるものです。

電話を受けた受付の人も、よほど慌てたのでしょう。用件の確認もそこそこに私につないでしまったのです。私も、心当たりはないが、何かやらかしたのかと大変緊張して電話に出た記憶があります。その内容はもちろん全くそういうものではなかったのでほっとしたと同時に、手術中になんでこんな電話を? みたいな態度を取ってしまって、非常に申し訳ないことをしたと思ったのを覚えております。

――『城砦』は、スコットランド出身の外科医A.J.クローニンが書いた自伝的小説。1937年に英米で刊行されて翌年フランス語訳とドイツ語訳、その後20数カ国で翻訳されました。かつては、日本の医師の誰もが読んでいたといわれる作品ですが、長く絶版となっていました。夏川さんは以前に読んだことはありましたか?

海外の小説も好きでかなり幅広く読んできたつもりだったのですが、そうした作品があったことすら全く知らなかった。逆にそのことに驚きました。

読んだことがなかったので、大変光栄な依頼ではありましたが、読んでみて自分の哲学と異なる物語であれば、お断りしますとお伝えしていました。

――異なる哲学とは?

医療小説には本当にいろいろな世界観があって、病院で殺人事件が起こるミステリーもあれば、ゴッドハンドを持つドクターが奇跡のような手術をやっていく物語もあります。私自身はミステリーを書きたいとは思っていないですし、現場の医師としてやってきて、ゴッドハンドはいないというのが私の中に明確な哲学としてあるものですから、そういう作品であれば貴重な機会ではあるけれど、お断りするつもりだったのです。しかし読んだら、全くそうではなかった。

愚直なまでに生真面目な若き医師アンドルー・マンスンがさまざまな経験を積み成長していく物語です。そこには希望も、情熱も、堕落も、絶望もある。読者の興奮をあおるような残虐なシーンや過激な文言は出てきませんが、淡々とした筆致でありながら、心揺さぶられ引き込まれる作品です。読んでみてこれは面白い、なぜこれほどの作品があまり知られなくなったのか、絶版になっていたのか分からないと思いました。

『城砦(上)(下)』(A.J.クローニン著、夏川草介訳、日経BP)

――海外の翻訳小説もよく読まれるそうですが、どんなところに魅力があるのですか?

自分の限られた環境の中でわかることは限られますが、文化圏の違う世界の、遠く時代の離れた作品を読むと、当たり前だと思っていたことがそうではなかったり、自分と違う価値観に出合えたりします。『サテュリコン』も『罪と罰』もいろんなことを教えてくれます。読むのはイギリスとフランスの小説が特に多いですが、ロシア文学も、最近はインドや南米も非常に面白い作品があって読んでいます。

医師として20年医療現場にいると、年配の人たちから死んだらどこに行くんですか、神様はいると思いますかなど、びっくりするような質問を受けることがあります。そうしたときに、正解か不正解かは別として、間もなく亡くなるという人のギリギリの問いかけに対して、自分なりにある程度哲学を鍛えて答えたい、十分それを考えた人間として答えられるようにしておきたい。そういう意味で私にとって本は大事なものなのです。

――クローニンの『城砦』は、1924年、青年医師アンドルーがウェールズの山間にある小さな鉱山町に赴任するところから始まります。夏川さんの新翻訳では、すっとその時代、舞台に引き込まれます。

実際にウェールズを訪れることができる生活ではないのですが、山の風景や城のたたずまい、『城砦』にも出てくる教会の廃屋など、これまでイギリスの作品をたくさん読んできたことが、ある種の下地になってくれていたように思います。もう一つはウェールズという舞台が、上高地や美ヶ原に似ている。高原があって馬がいて、急に雪が降っていきなり寒くなる、そういう情景や空気、風が、今私が暮らしている信州の土地に近いようにも感じました。

夏川草介氏 1978年、大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県で地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し作家デビュー。同シリーズは累計330万部を突破した。他の著書に、世界数十カ国で翻訳された『本を守ろうとする猫の話』、『始まりの木』、コロナ禍での自らの医師としての経験を基につづり大きな話題となったドキュメント小説『臨床の砦』など。最新作『スピノザの診察室』は24年本屋大賞4位、映画化も決定している。『城砦』は初の翻訳作品。

クローニンに感じた世界観の共通点

――夏川さんと同じように、医師であり作家であった作者のクローニンには、どんなイメージをお持ちですか?

私自身は、医師をやりながら作家をしている状況についてあまり良いものだと思っていないのです。人が亡くなっていく環境にいると精神的にも体力的にもギリギリの勝負が続きます。本を書くことでバランスを取っているところがあるのですが、まず臨床ありき、自分は医師だと位置づけています。

クローニンも、この人はちゃんと患者を診ていた人だということが読めば間違いなく分かる。クローニン自身が臨床現場で受けたダメージとか、迷いとかが作品の中に克明に出てきます。恐らく私と同じように、どうにもならない気持ちがあって書いたのではないか、クローニンは作家として生きていたわけではなくて医師として生きていく中で、作品を書いた人だと、私と同じような世界観を持っているんじゃないかなと感じました。

――主人公アンドルー・マンスンも医師ですよね。

アンドルーは内科医でありながら、必要とあれば手術も断行し、論文を書き研究者としての側面ももっています。そして、ある患者さんが亡くなったことをずっと悔やむんですね。患者の死というのは、どんな医師にとっても大きなことです。ですが、自分自身のメンタルを守るために、患者の死を真っ正面から受け止めないようになっていきます。しかし、アンドルーはそうではない。今、日本の医師でここまで真っ正面から受け止め、真剣に悩み続ける人がどれぐらいいるのかと考えてしまうような、今はそういう時代です。でもやっぱり、やれるはずのことができずに人が亡くなったのだとしたら、それは一生心に抱えておくべきだと私は思う。そこはクローニンにとても共感できるところです。

  • 著者 : アーチボルド・ジョセフ・クローニン
  • 出版 : 日経BP
  • 価格 : 1,980円(税込み)
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    (取材・文: 中城邦子、構成:市川史樹=日経BOOKプラス編集、写真:益永淳二<夏川さん>・スタジオキャスパー<本>)

    [日経BOOKプラス2024年7月25日付記事を再構成]

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