今回、ビジネスパーソンに役立つ文化人類学の本を紹介します。まず、文化人類学のビジネスへの活用例が詳しく紹介されているのが、『ANTHRO VISION(アンソロ・ビジョン) 人類学的思考で視るビジネスと世界』(ジリアン・テット著/土方奈美訳/日本経済新聞出版)です。
著者のジリアン・テットは英フィナンシャル・タイムズ(FT)の米国版編集委員会委員長で、『セイビング・ザ・サン リップルウッドと新生銀行の誕生』(武井楊一訳/日本経済新聞出版)、『サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠』(土方奈美訳/文春文庫)など経済や経営の著作が有名ですが、ジャーナリストになる前は大学院で文化人類学を専攻していました。1990年から91年にかけてタジキスタンに滞在し、現地の婚姻関係を調査して博士号を取得しました。
その後、FTに入社、ジャーナリストとしての道を歩み始めました。私も文化人類学を学んだ後に金融業界へ就職したので、シンパシーを感じます。
文化人類学はずっと「未開の地」を研究する不思議な学問という位置付けだったと思いますが、現代社会でも文化人類学が活躍できる余地があることを、全体を通じて述べています。しかもインテルやネスレなどの最先端のグローバル企業が、ビッグデータと対極にある泥臭い学問を役立てようとしているところがギャップとして面白いと思います。
日本での事例も登場します。グローバル化が進む世界では、どの国の消費者も同じようにものを考え、行動すると考えがちです。スイスに本社を持つ食品大手ネスレのキットカットは、もともとイギリスのお菓子でした。同社は「Have A Break, Have A KitKat」のキャッチコピーで、工場の労働者へ向け休憩時間に食べてもらおうとしました。しかし、日本ではブレイク(休憩)時にチョコレートを食べる習慣がなかったため、ネスレが日本で製造を開始した1989年当時、売り上げはパッとしませんでした。
ところが2001年、ネスレ日本のマーケティング部門が、九州地区では12月〜2月にかけて売り上げが大きく伸びていることに気づきました。調査をしたところ、キットカットの響きが「きっと勝つとぉ(きっと勝つよ)」という九州の方言に似ていたため、受験生の縁起担ぎとして購入されていたのです。
そこで文化人類学のエスノグラフィー(行動観察)にヒントを得て、10代の消費者に「ブレイクから連想する光景」を写真に撮ってもらったところ、音楽を聴いたり仮眠をしたりする場面はありましたが、チョコレートの写真は1枚もありませんでした。日本の文化では「ブレイク=チョコレートを食べて休憩する」ではなかったのです。
独断でコピーを変更
そこでネスレ日本は、キャッチコピーを「キット、サクラサクよ。」に変更します。ネスレ本社には知らせず、独断の変更でした。すると2003年には学生の34%がキットカットをお守りとして使うようになり、2014年には日本で最も売れているチョコレート菓子になりました。余談ですが、私も大学受験のときに宿泊したホテルで「キット、サクラサクよ。」のキットカットをプレゼントされ、とてもうれしかった思い出があります。
グローバル企業にとって、グローバルに確立したブランドをどの程度、現地化し展開していくかは非常に難しい問題です。本書を読むと、そんなときに文化人類学の思考が役立つことが分かります。
また、本書では2011年、グリーンスパン元FRB議長がカンファレンスで会ったジリアン・テットに、「人類学について良い本を紹介してくれないか、と尋ねてきた」というエピソードが出てきます。当時はクレジット・デリバティブなどの金融派生商品を震源地とする深刻な金融危機が起き、グリーンスパンはその対処に悩んでいました。文化人類学の思考を学ぶことで、自らの思考の欠陥を知ろうとしたのです。
タンザニアの商人に学ぶしたたかさ
もう1冊は『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』(小川さやか著/光文社新書)です。
著者の小川さやかさんは、タンザニアでフィールドワークを行った文化人類学者です。タンザニアの調査というと、以前は遊牧民や農耕民が対象でしたが、小川さんが調査をしたのは都市の商人でした。私たちが勝手に想像するアフリカは、野生動物がサバンナを行き交い、マサイ人が伝統的な衣装を着てジャンプするような姿です。しかし、現代のアフリカではグローバル化、都市化が急速に進んでいます。人々はアディダスのTシャツを着て、スマホや電子マネーを使っています。
タンザニアの商人たちは思い付きで商売を始め、失敗すると別の家族の稼ぎで食いつなごうとします。お金にはルーズで、借りてもなかなか返しません。貸しているほうも「貸したままでいるほうが、困ったときに助けてもらえるだろう」とあまり催促しません。「その日暮らし」というと無計画のように見えますが、実はそこには眠っている合理性や隠れた戦略があり、資本主義に取り込まれつつも、しぶとくたくましく生きていることが分かります。
同じ資本主義社会といっても、会社に勤め、1つの仕事をやり続ける日本のビジネスパーソンと、基本的にフリーランスで、時には複数の仕事を持ち、しばしば変えるタンザニア商人とはずいぶん違います。
日本のビジネスパーソンに足りないのは、タンザニアの商人たちのような、自らの才覚で資本主義をワイルドに生き抜く強さかもしれません。仕事の場所もやり方も臨機応変に変えていく。それはタンザニアでしかできないことではありません。日本にいても、しなやかに、したたかに働いていけるはず。そんな気づきを得られる1冊です。
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大川内直子アイデアファンド代表取締役、国際大学GLOCOM主任研究員。東京大学教養学部卒。同大学大学院より修士号取得。専門分野は文化人類学、科学技術社会論。学術活動と並行して、ベンチャー企業の立ち上げ・運営や、米大手IT企業をクライアントとしたマーケットリサーチなどに携わる。大学院修了後、みずほ銀行入行。2018年、株式会社アイデアファンドを設立、代表取締役に就任。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)主任研究員、昭和池田記念財団顧問。著書に『アイデア資本主義 文化人類学者が読み解く資本主義のフロンティア』(実業之日本社)。
(取材・文: 三浦香代子、取材・構成: 桜井保幸=日経BOOKプラス編集、写真: 木村輝)
[日経BOOKプラス2024年7月8日付記事を再構成]
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