事故で亡くなった今村鉄夫さん。旅行が好きで国内外によく出掛けていたという=長野県飯田市で2024年4月19日午後5時17分、田中理知撮影

 毎朝目が覚めると、心の中で夫にこうお願いをする。「今日も頼むね。家族みんなが無事でいられますように」。娘や息子。そして、夫は会うことができなかった孫やひ孫の顔を思い浮かべながら――。

 乗客乗員264人が犠牲になった1994年の中華航空機墜落事故から26日で30年となる。今村宏江さん(83)=長野県飯田市=の夫・鉄夫さん(当時53歳)もあの日、この飛行機に乗っていた。地元の仕事仲間と台湾ツアーに参加した帰りだった。

最期に見た夫の涙

 「まさか、お父さんが乗ってる飛行機じゃ……」。テレビの中で燃えさかる機体を見た時、宏江さんは言葉を失った。駆けつけた名古屋空港(現・愛知県営名古屋空港、同県豊山町)近くの体育館で、変わり果てた夫と対面した。「お父さんっ」と大声で呼び掛けると、左目から涙がこぼれたように見えた。「生きてる」。とっさに手首を触ったが、脈を感じることはできなかった。

 左官会社を経営していた鉄夫さん。いつもは厳しく、亭主関白な面もあったが、親子そろって海外旅行に何度も連れていってくれるなど家族思いの夫だった。「私も一緒に行けばよかった」と悔やんだこともある。母が泣き崩れる姿を、子どもたちは今も覚えている。

墜落炎上した中華航空機。機体の残骸が散乱している。

 会社は宏江さんが継ぎ、東京で暮らしていた長男・栄志さん(56)も実家に戻って会社を手伝った。代替わりしても、鉄夫さんが築いた取引先との関係は途切れることはなかった。バブル好景気の余韻が残る時代。周囲に支えられ、忙しい日常に戻っていった。

 同じ事故の遺族は、中華航空やエアバス社の責任を追及するため95年に裁判を起こしたが、今村さん一家は「お父さんが帰ってくるわけじゃないから」と参加しなかった。

会わせたかった孫、ひ孫

 事故から30年の月日が過ぎた。当時20代だった長男と長女は、鉄夫さんの年齢を超えた。それぞれ家庭を築き、孫8人、ひ孫4人にも恵まれた。うれしい知らせが家族に舞い込むたび、それを鉄夫さんと共有できない寂しさがこみ上げる。

 栄志さんも年齢を重ね、親になり、鉄夫さんの無念さが身に染みるようになった。厳しくておっかない父だった。でも、野球の練習道具を手作りしてくれるなど、頼れる父でもあった。「いいおじいちゃんになっていたんじゃないかな」。長女の後藤公美さん(58)は、見ることができなかった父との未来を想像する。

中華航空機の墜落現場で手を合わせる遺族ら

 「おじいちゃんはいなくなっちゃったんだよ」「飛行機が落ちたの」。事故の日が近くなると、宏江さんは孫やひ孫にあの日の出来事を伝えてきた。

 鉄夫さんにとっては孫にあたる栄志さんの長男・宗平さん(26)は昨年、栄志さんからこう言われたという。「子どもができたら(事故のことを)伝えてやれよ」。事故を忘れてほしくないという、栄志さんの思いを受け取った気がした。

 「直接の当事者ではないから、深くは理解できないかもしれない。でも、この先の世代にも、おじいちゃんのことや事故のことを『忘れないで』と伝えていきたい」

 今年も4月26日を迎える。慰霊の日の式典には、孫とひ孫も連れ一家4世代で訪れるつもりだ。宏江さんは小さくほほえんだ。「みんなで行けば、こんなにいるのかって、にぎやかだなって、お父さんは喜ぶはず。きっと見てるから」【田中理知】

中華航空機墜落事故

 1994年4月26日夜、愛知県豊山町の名古屋空港(現県営名古屋空港)で台北発の中華航空140便が着陸に失敗して墜落。乗員乗客271人のうち264人が死亡、7人が重傷を負った。国内航空機事故では520人が犠牲となった85年の日航ジャンボ機墜落事故に次ぐ惨事となった。

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