沖家室島の漁村集落は水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定されている(小林希撮影)

瀬戸内海で3番目に大きい屋代島(周防大島とも呼ぶ)の南に、面積1平方キロメートル未満の沖家室島(おきかむろじま)がある。江戸時代から瀬戸内海屈指の一本釣り漁村として栄え、最盛期の明治20(1887)年頃には、総戸数700戸、人口約3千人に達して、「家室千軒」とうたわれた。洲崎と本浦の港を中心とした2つの集落があり、当時はどちらも港を埋め尽くすほどの漁船があったという。

始まりは一本釣り漁

周防大島町として合併された自治体の一つ、東和町の歴史などをまとめた『東和町誌』には、沖家室島で漁業が発展したのは、貞享3(1686)年頃に、沖家室島の漁師たちが阿波(徳島)の堂ノ浦(現在は堂浦)の一本釣り漁を習い、導入したからだとわかる記述がある。沖家室島の好漁場は、潮流が速く複雑な海域で、鳴門海峡を漁場とする堂ノ浦の漁師たちからは教わることも多かったのだろう。

島の人口は増え、やがて出稼ぎ漁も盛んになる。漁場を追い求めて広い海を渡り、四国や九州、朝鮮半島、台湾、ハワイなどへ移住した者も多かった。民俗学者・宮本常一の著書『忘れられた日本人』には、明治20年に、沖家室島の漁師らが対馬南端の豆酘崎(つつざき)沖で漁を始め、浅藻という集落の一部を開いたと書かれている。出稼ぎ漁の稼ぎは、郷里の発展につながった。

屋代島の宮本常一記念館では、大切な漁具だった「かむろ針」の展示や沖家室島の漁業について紹介されている。かむろ針は、大正期に釣り針作りの先進地の職人が相次いで沖家室島に来島したことで伝えられた技術に、島独自の工夫を加えて作った釣り針。出稼ぎ漁師や移住者を介し、各地へ広まっていった。

農漁村交流施設「沖家室シーサイドキャンプ場」では地元住民による物販も行われている(小林希撮影)

寄付金でインフラ整備

戦後は、出稼ぎ漁に制限が加わったことや海洋環境の悪化、乱獲などが原因で漁業は廃れ、人口は減少し続けた。しかし現在も島関係者は広域に存在し、支え合っている。昭和58(1983)年に完成した屋代島と沖家室島を結ぶ「沖家室大橋」の建設時には、各地の関係者による寄付金が多く集まった。

昭和22(1947)年に完成した旧沖家室中学校のグラウンドも、ハワイに移民した関係者の寄付で造成された。昨年、その跡地は「沖家室シーサイドキャンプ場」としてオープンした。管理人は、「初夏は周辺に生息するヒメボタルが飛びまわり、山が光ってみえるほど美しい光景になる」という。

島の蛭子(えびす)神社を参拝した。ここで漁師の妻たちは、漁に出た夫の無事を祈願していたそうだ。漁師らの生き方は、島国で生きる日本人という民族を理解するヒントになるのではないか。

アクセス

屋代島から沖家室大橋を通って車やバスで。

小林希

こばやし・のぞみ 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は150島を巡った。

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