――物語やドラマを見ていると、平安貴族たちは本当に仕事をしていたのかなと思ってしまいます。
平安貴族たちのうち、公卿(くぎょう)や諸大夫(しょだゆう)は現在でいえば、国会議員や中央省庁の幹部職員といったところが近いでしょう。大臣や大納言、中納言、参議など現任の官職を持つ公卿は藤原道長の時代で約20人。人数的にも閣僚クラスというイメージです。
確かに『源氏物語』をはじめとする王朝文学や、『光る君へ』などのドラマ、平安貴族たちが登場する漫画では、彼らの仕事ぶりはあまり出てきません。公卿たちは立派な寝殿で宴会を催し、和歌を詠み、雅楽を奏で、美しい舞を楽しみ、女性たちと愛を語らう……。日々遊び暮らしていたように思われがちですが、決してそんなわけではありません。
道長の『御堂関白記』やドラマ『光る君へ』でロバート秋山さんが演じる藤原実資の『小右記』など、平安時代中・後期の貴族たちは詳細な日記を残しています。それらを読むと、遊び暮らす日々とは程遠い仕事ぶりが見えてきます。『源氏物語』は当時の状況を参考にしており、背景の描写はとてもよくできていますが、政務は作品に関係がなかったためか、あるいは紫式部自身の関心がなかったためか、ほとんど記述がありません。
最も大切な仕事は年中行事でした。現在では「年中行事のように」という言い回しがあるように、やってもあまり意味がないことを形式的に繰り返すマンネリなイベントのように言われがちですが、当時は違いました。決まった行事を滞りなく行っていくことが政治そのものでした。年中行事には、春と秋の大人事異動である「除目」(じもく)や季節ごとの祭礼や仏事も含まれています。
当時の年中行事を実資が記した『小野宮年中行事』から挙げてみると、主なものだけで約100。最も忙しい1月は除目を含めて20以上の行事があります。ほぼ毎日が行事です。全員がすべてに参加するわけではないですが、ここには記されていない行事もあります。行事はただ決められた場所に行き、顔を出すというものではなく、覚えなければならない作法や手順も多く、事前の準備が必要です。天皇が寺社に参詣する行幸(ぎょうこう)などの大きな行事になると、準備に数カ月かかることもあります。
――行事以外の会議や政治はどのように行われていたのですか?
行事のほか、陣定(じんのさだめ)、外記政(げきせい)、陣申文(じんのもうしぶみ)など日々の政務も行われていました。陣定は公卿の会議で、蔵人頭(くろうどのとう)が議題や関連書類を示し、参加した公卿が一人ひとり意見を述べます(蔵人頭については前回を参照)。『光る君へ』でも、しばしば陣定の場面が出てきますが、通常は下位の公卿から順に発言することになっていました。会議の内容は参加者のうち実務能力に優れた参議が、誰と誰はこういう意見、この人はこういう意見と定文(さだめぶみ)という文書にまとめ、蔵人頭を通じて、天皇や摂政・関白に奏上します。当時は多数決という概念はないので、全員一致の意見が通らないこともありましたが、公卿たちの意見はまずまず尊重されていたようです。摂関政治の時代ではありますが、摂政・関白がすべてを決めていたわけではありません。
外記政は諸国や様々な役所から提出された書類(申文=もうしぶみ)を読み、決裁する政務です。道長の時代には回数がやや減り、参加者もそれほど多くありませんでしたが、それでも月に数日は行われていました。比較的回数が多いのは、陣申文です。
行事や陣定、外記政などの政務はそれぞれ上卿(しょうけい)という責任者としてリーダーシップをとる公卿がいます。準備を含め長期間にわたる行事や大きなイベントは事前に担当者が決められていました。ただし、摂政・関白は天皇の補佐・代理人なので、上卿を務めることはありません。
行事や政務によっては、その日の参加者のうち最も地位の高い人物が上卿を務めることもあります。宮中の官職では「左」が上位なので、左大臣が出席していれば左大臣が、左大臣が欠席している場合は右大臣が、左大臣も右大臣も不参加のときは内大臣がやりました。上卿は基本的に大納言以上が担当します。外記政やそれほど大きくない行事では中納言がやることもありますが、公卿の末席である参議はできません。
――公卿たちは真面目に参加して仕事をしていたのですか?
自分が責任者として任されたものや、大きな行事を除くと、公卿たちの出席率は様々でした。自分にとって都合が良くない、あるいは上卿を任された公卿が実力者ではなくて見くびられている場合などは、欠席者が続出して会議が延期になることも珍しくありませんでした。
藤原道長より20歳以上年長のいとこ(父・兼家の兄である兼通の長男)の藤原顕光(あきみつ)は家柄がとても良く、左大臣を長く務めましたが、儀式などでも失態を繰り返し、「無能の人」という評価が定着していました。道長はもちろん、他の公卿からも軽んじられており、彼が上卿を担当する行事や会議は欠席者が多く出ました。評価が低く、最高実力者であった道長からも疎まれていた顕光とは親しい仲間と見られたくないと思ったのでしょう。顕光の娘婿であった敦明親王(小一条院)も、後に道長の三女・寛子のもとへ去っています。
月に数回は深夜残業も
――平安貴族はどんなスケジュールで仕事をしていたのでしょうか?
奈良時代、律令国家が成立した頃、政治は朝早くから行われるものでした。だからこそ「朝廷」であり、「朝堂院」が政務の場でした。しかし、平安時代半ばになると、仕事は午後から夜が中心になります。
古くからの伝統的な政務である外記政は午前中に行われることが多かったのですが、回数もそれほど多くはなく、身分の高い公卿は、午後に陣定などが行われる近衛府の詰め所「陣座(じんのざ)」に出勤、夕方の酉の刻(とりのこく=午後6時の前後2時間)ごろに退出するのが一般的だったようですが、夜遅くまでかかることも少なくありませんでした。
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、村上天皇(円融天皇、冷泉天皇の父。一条天皇、花山天皇などの祖父)が、下級官人から「本来は日中に終わらなければならない公事(政務)が、夜遅くまでかかっているため、松明(たいまつ)が多く消費されている」と指摘されたという説話が残っています。
実資の『小右記』には丑の刻(うしのこく=午前2時の前後2時間)、亥の終刻(いのしゅうこく=午後11時)ごろに退出したという記述があります。月に何度かは深夜まで「残業」を余儀なくされていたようです。
年間3日しか休めない(休まない)
――身分の低い官人たちも公卿と同じような仕事ぶりですか
下級官人の勤務時間も、基本的には公卿たちとそれほど大差はありませんでした。政務や行事に備え、午前から出仕し、夕刻に退出。月に何度かは深夜遅くまで勤務というのが一般的だったようです。ただし、準備や後片付けがあるぶん、公卿たちより早く出勤することが必要で、帰りもより遅くなったと思われます。
ポストや能力、意欲によって仕事の忙しさに差があるのは古今東西同じですが、いずれ叙爵(じょしゃく)して五位の位を得て貴族の仲間入りすることが約束された蔵人、太政官の文書関係の事務や記録を務める大外記(だいげき)、少外記(しょうげき)や大史(だいし)、少史(しょうし)などのポストはすさまじい激務でした。
平安時代の政務運営に関する事例をまとめた『政事要略』から、村上天皇の天暦4(950)年8月〜天暦5(951)年7月の貴族たちの勤務日数を見てみると、公卿たちの多くは200日以下の出勤ですが、六位の位を持つ外記や史は300日以上勤務している者が少なくありません。なかでも少外記の紀理綱(きのまさつな)は351日勤務しています。当時の暦では1年は354〜355日だったので、年間3日しか休んでいないことになります。この仕事ぶりが認められたのかどうかは分かりませんが、理綱は2年後の天暦7(953)年に従五位下・三河守となり、貴族の仲間入りをしたことが確認されています。
評価は高い、でも出世しない
――働いたら出世が約束されるものなのでしょうか?
平安貴族たちの中で、無位や六位以下の位階にしか進むことができない(=諸大夫層になれない)侍身分の官人たちは、出世は極めて難しいのが現実でした。同じ六位の位を持つ人でも、貴族の仲間入りをするステップとしての官職もあれば、出世どころか、異動すらないこともあります。
太政官の下級職員の官掌(かじょう)を40年務めた狛光経(こまのみつつね)のように、数十年もの間、同じポストにとどまっていた例もあります。しかし、出世しない、同じポストにとどまっているから、その人が働いていないとか、評価が低いというわけではありません。むしろその逆で、様々な経験を積み上げ、先例や故実をよく知っている人物として重視され、高い評価を受けています。光経が亡くなったときに、右大臣の中御門宗忠は「官掌となってから40年に及ぶ。官中の要人なり」と賛辞を贈り、その死を悼んでいます。平安絵巻を彩る道長や実資など上級貴族の活躍を、光経たちのような下級官人たちが支えていたのです。
平安貴族たちの仕事がよく分かる 井上氏お薦めの3冊
『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』(美川 圭/中公新書)
律令制の導入以降、国政の重要事項については公卿たちが会議を行って方針を決めた。日本の合意形成プロセスの原型ともいえる公卿会議の変遷をたどった一冊。
『平安京の下級官人』(倉本一宏/講談社現代新書)
長年昇進を望みながらかなわなかった下級官人。宮廷を襲った疫病。闘乱に明け暮れる人々……。『御堂関白記』や『権記』などの古記録から平安京の実務を行った下級官人の姿や当時の社会の息吹を伝える。
『摂関政治から院政へ 京都の中世史 1』(美川圭、佐古愛己、辻浩和著/吉川弘文館)
摂関時代から11世紀後半に始まる院政期にかけて、政務のしくみや運営方法・財源などの変化を政治権力の転変とともに描く。都市域が拡大し、平安京が「京都」へ変貌する様子がよく分かる。
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井上幸治佛教大学非常勤講師。1971年京都市生まれ。立命館大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、佛教大学歴史学部非常勤講師、京都市歴史資料館館員。編著書に『平安貴族の仕事と昇進』(吉川弘文館)、『外記補任』(続群書類従完成会)、『古代中世の文書管理と官人』(八木書店)など。
(取材・文: 市川史樹=日経BOOKプラス編集部、写真: 山本尚侍)
[日経BOOKプラス2024年3月1日付記事を再構成]
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