「第63回山陰高校野球大会」(鳥取、島根県高校野球連盟主催)が8、9日に、鳥取県米子市のどらやきドラマチックパーク米子市民球場で開かれる。山陰大会はかつて、夏の全国大会の出場をかけた予選大会の時期もあるなど、様々な大会形式を取ってきた。現在は春の両県大会上位2チームずつが対戦する、夏の大会に向けての試金石との位置づけだ。鳥取勢と島根勢が名勝負を繰り広げた山陰大会の歴史を振り返る。

 「島根県高校野球史」(島根県高野連発行)によると、第1回の山陰大会は1906(明治39)年。同誌には大会目的は「野球技術の発達を図る」などとあり、現在まで続く山陰大会の歴史の幕が開けた。この大会はいったん14(大正3)年に終わる。

 一方、15年、夏の全国大会が始まる。全国大会の代表枠は、戦争による中断をはさんで第29回(47年)まで山陰2県で1校だった。このため、全国予選としての山陰大会が15年から開かれることになった。

 だが、両県代表が対戦する第1回の決勝は大阪・豊中球場で開催された。なぜか。その2年前の山陰大会での米子中(現・米子東)と松江中(現・松江北、松江南)の対戦時、応援団による暴力事件が起きた。このため山陰での試合を避け、いわゆる「中立地」として、全国大会の舞台だった豊中球場で行われたのだ。

 第1回の決勝は鳥取中(現・鳥取西)と杵築中(現・大社)が激突、5―2で鳥取中が勝利。歴史的な全国大会の開幕試合で、鳥取中の投手が大会第1球を投じた。戦前の期間は鳥取勢の活躍が目立ち、26回のうち19回、山陰大会を制し、全国出場している。

 島根勢の全国初出場は第3回大会の杵築中。2年前の大阪での苦杯を胸に猛練習を重ね、山陰大会準決勝で鳥取中を1―0、決勝では松江中との島根対決を制した。長い伝統を誇る松江中が山陰大会を制したのは第9回(23年)。米子中との決勝では、九回逆転サヨナラ勝利で念願の全国へ。フォームから「どじょうすくい投法」と呼ばれた熊谷投手が活躍、4強に入った。

 山陰勢は第15回(29年)までに6回(鳥取4回、島根2回)も全国大会で4強入りし、強豪ぶりを全国に知らしめた。

 第30回(48年)から全国大会出場の区割りが変わり、山陰に岡山が加わった東中国大会となるなどの変遷をたどる。それでも山陰大会は全国予選ではない形で続いていたが、59年に発展解消し、春の中国大会となった。

 しかし、山陰両県のつながりは深く、62年、レベルアップと親睦などを目的に始まったのが現在に直接つながる山陰選抜大会だ。当初は春の県大会1~3位校がそれぞれ同位校と対戦する形式だった。1位対決は松江商と倉吉東で、松江商が初代王者となった。

 ところが、またしても全国大会の区割り変更で57回(75年)~59回(77年)が山陰枠に。この間は、親睦のための山陰選抜大会と、全国予選の山陰大会が並立することに。山陰選抜大会は前哨戦として両県チームの戦力分析の場となった。

 75年の山陰選抜大会は鳥取西が優勝するが、山陰大会は江の川(現・石見智翠館)が優勝。76年は大田と浜田、77年は浜田が連続優勝した。

 78年から現行の1県1校となることによって、山陰選抜大会(89年に山陰大会に改名)は基本、今の形となる。過去62回のうち、島根勢37勝、鳥取勢23勝(中止2回)。学校別の優勝回数では4連覇を含む開星の8回が最多、境の7回が続く。

 山陰大会の意義について、今回主管の鳥取県高野連の田村嘉庸理事長は「山陰は一つという思いで、両県の情報交換と切磋琢磨(せっさたくま)の場にしてほしい」と話す。今年の山陰大会には、鳥取県から鳥取城北と米子松蔭、島根県から益田東と石見智翠館の計4チームが出場する。(斉藤勝寿)

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。