放課後の生物室に野球部員が集まった。空気は重く、張り詰めていた。

 5月下旬、大府高校(愛知県大府市)。2、3年生の部員約50人に18のマス目がある紙が配られた。これから夏の愛知大会のベンチ入りメンバー18人を選び、名前とメッセージを書く。

 部員による投票。得票順にメンバーが決まる。

 マネジャーの満永龍飛(りゅうび)さん(3年)は、書く手がぴたりと止まった。自身は、けがなどの影響で1年生の冬に選手からマネジャーに転向した。

 投票日まで仲間のことばかり考えていた。「みんな良いところがあって」。おおよそのメンバーは決めてきたはずなのに当日になって、迷った。部員一人ひとりの頑張りをそばで見てきたからだ。

 書き終えた部員は中嶋勇喜監督(44)に投票用紙を渡し、教室を後にする。自分の名を書く人、書かない人それぞれだ。紙が配られてから約1時間半後に最後の投票者、満永さんが教室を出た。

春夏の甲子園に計7回出場の名門…だが部員は私立強豪に劣等感?

 大府は昨年度から夏のベンチ入りメンバーを部員間投票で決めている。

 野球部ができて70年余り。元巨人の槙原寛己、元阪神の赤星憲広ら、プロ野球選手を輩出し、春と夏の甲子園に計7回出場した公立の強豪だ。「野球選手である前に立派な高校生であれ」。部訓はグラウンド裏の銘板に刻まれている。

 だが、中嶋監督が2022年に赴任して気づいたのは部員の自信の無さ、主体性の弱さだった。21年の愛知大会で4強入りしたが、赴任した年は初戦で敗退。優勝は遠かった。

 私立の強豪に進めなかった経験が自信をそいでいるのか。さらに、部員が練習メニューを監督に聞くのは当たり前。

 「おんぶにだっこという感じでした」。伝統校ならではの強固な上下関係も変えたかった。

 「人となりをしっかり育てたい」。採り入れたのが中嶋監督が前任校で10年ほど前からやっていた部員間投票だった。

メンバー発表の翌日、ベンチから外れた部員がベンチ入り部員に一言

 投票から約1週間。練習後に、夏の大会メンバーが読み上げられた。

 マネジャーの満永さんは、選から漏れた部員の顔をちらりと見た。悔しさをこらえている。そう感じた。ただ、名を呼ばれなくても、うなだれてはいなかった。

 大野陸真主将(3年)は発表後、選ばれなかった部員に伝えた。「夏に勝つために支えてほしい。結果で恩返しするから」

 直近までベンチに入っていたのに、選ばれなかった部員もいる。入れ替わるように選ばれたのが投手の西泰世さん(3年)だ。

 発表翌日の教室で、メンバーから外れた部員に言われた。

 「頼むね、ちゃんとしろよ」

 いま練習では、ベンチに入れなかった部員たちが、仲間に助言する姿がある。西さんの気持ちが引き締まる。

 「あいつの前では、変なプレーはできない」

 部員間投票を始めて、主体性が育ちつつある。練習メニューを考えるのも部員自身。入部してすぐの自主練習はキャッチボールやティーバッティングばかりしている部員が多かったが、監督らのさりげない声かけを経て、次第に自らメニューを組み立てるようになった。自分で導き出したやり方だからこそ、自信もつく。

互いを見てきたからこそわかる、互いのこと

 今月20日午後、中嶋監督はベンチ入りする選手を集め、投票用紙を手渡した。自分を選んでくれた仲間たちの言葉があった。

 2年生の手には、3年生からの言葉もあった。

 「2年生だからって関係なく強気でいこう!」。2年生の部員は3年生にこんなメッセージをつづっていた。「一番近くで努力を見てきているので、大丈夫です」

 それぞれ紙に目を落とし、言葉をかみしめた。

 「練習終わりに努力しているのを知っている」

 「いま良い感じだから!」

 互いが、互いを見ていなければ書けない。小さな枠は3、4行の丁寧な文字で埋まっていた。

 投票用紙を渡し終えた、中嶋監督が言った。

 「彼らの気持ちを受け取って、堂々と前を向こう」

 選手たちの瞳に力が込もった。(渡辺杏果)

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