パリ五輪陸上競技10日目の8月10日、男子走高跳の赤松諒一(29、SEIBU PRINCE)が歴史的な快挙を成し遂げた。2m31で5位と、1936年ベルリン大会の矢田喜美雄と並ぶ過去最高順位タイを成し遂げた。日本人3人が入賞した同大会以来、この種目88年ぶりの入賞でもあった。
競技後のテレビインタビューと帰国時の取材では、「楽しかった」という言葉を何度も発した赤松。オリンピックの決勝という舞台を楽しめるまで、どういう成長過程を踏んできたのだろうか。

「気づいたら入賞していた」(赤松)

赤松に“歴史的なことをやってやろう”という意識はなかった。
最初の高さの2m17、次の2m22と1回でクリアし「調子よかったです」と振り返った。跳躍技術よりも体調の良さを実感できた。次の2m27は1回失敗したが、2回目で「助走を修正してかなり良い跳躍」ができたことで成功した。
助走最後の5歩を、バーに向かってカーブを描きながら素早く走り込む。そこが赤松の武器になっている。

「パリ五輪は最後の切り込みのスピードが、今までの跳躍と比べて高いレベルでまとめられました。水平方向のスピードを踏み切りで鉛直方向(上方向)に変換して、高さを出す跳躍ができたと思います」

2m27を8人しか跳べなかった時点で、日本選手88年ぶりの入賞が決まったが、「次の高さを絶対に跳ぶ」ということだけを考えていた。「気がついたら入賞していましたね(笑)」

次の2m31は自己記録を1cm上回る高さだったが、これも1回でクリアし日本選手五輪最高順位タイが決まった。

「めちゃくちゃ嬉しかったですね」

この日の赤松はずっと笑顔だった。

「たぶん楽しくて笑っていたのだと思います。一緒に競技をしている選手はすっと憧れていた大スターたちで、そんな中で自分が戦わせてもらっているのが本当に楽しくて、どの試技も楽しかった」

スタッド・ド・フランスの大観衆も、赤松は味方にしていた。

「低い高さのバーでも、跳ぶと“オオー”って歓声が起きました。手拍子を求めたときもしっかり応えてくれましたし、観客の目が自分に来ていることがわかって跳びやすかったですね」

競技後の取材でも笑顔を絶やさず「楽しい試合ができました」と繰り返した。

「地方からでも世界の舞台で戦える」(赤松)

赤松は陸上競技の強豪ではない岐阜県の加納高出身。それでも3年時(13年)に全国大会3位という成績を残した。進学した岐阜大は強豪大学に比べ練習環境に恵まれてはいなかった。トラックは全天候舗装ではなく土で、走高跳の跳躍練習をする設備もなかった。競技場に行って跳躍練習をする回数は少なく、普段は短距離ブロックで練習していた。
それが助走スピードアップにつながった面はあったが、「全力で走るだけで、走るフォームが定まっていなかった」という面もあった。その環境でも2年時、4年時、大学院2年時に日本インカレに優勝した。

トレーニング面の転機は大学4年時の17年だった。今も赤松を指導する林陵平コーチ(岐阜大監督)が着任した。以前から赤松には注目していたが、目の前で見ると資質の高さに驚かされた。

「全身の筋肉がアキレス腱と同じくらいの硬さなんです。そこは普通の選手と明らかに違いました。跳躍選手には最適の、バネを生む筋肉です。赤松は走るメニューを中心にやっていたわけですが、走高跳選手としては当たり前に行うジャンプ系や、ウェイトトレーニングを中心としたメニューを取り入れました」

林コーチは当時28歳。日本トップレベルの選手を指導した経験はなかったが、赤松は「ウェイトなどもやったらどうなるのか、興味は持っていたんです。林コーチの話を聞いて、一度舵を切ってみよう、と思いました」と、トレーニング内容の変更に前向きだった。

だが、すぐに結果が出たわけではない。自己ベスト近くの記録の安定感は増したが、大学2年時(15年)にマークした2m25をなかなか更新できなかった。しかし赤松はその間も、地道なトレーニングに取り組むと同時に、学術論文を読み込むなど将来の飛躍への努力を欠かさなかった。その一環で過去の跳躍の動画も分析し直した。

「大学2年時の2m25も、助走はゆっくりスタートしていますが、最後のカーブのかけ上がりが上手く走れていました」(赤松)

20年に2m28と5年ぶりに自己記録を更新した。シーズン終盤の主要試合は終了している時期で、親交があった先輩選手の引退試合に友情出場のような意味で出た大会だった。

「球技をしながらリフレッシュしていた時期でした。楽しく跳んでいたら2m26の自己新をクリアできて、2m28も跳べてしまいました」

それでも林コーチによれば、「乱れることが多かった最後の5歩がスムーズに走れて、減速も小さかった」という。レベルは今より低かったが、パリ五輪に通じる要素もある状況で自己記録を更新していた。

今も岐阜を練習拠点とする赤松。林コーチとの出会いも含め、「地方からでも世界の舞台で戦えるようになることは、十分証明できたのかな」とパリで実感した。

「今までで一番アドバイスが少なかった大会」(林コーチ)

21年の赤松は東京五輪も狙えるレベルに成長していたが、5月の大会で自己2番目の2m27を跳んだ時に足首を痛め、その後のシーズンを棒に振った。しかし冬期練習で筋力アップに成功し体重も3kg増えた。22年シーズンは「5月くらいから踏み切り5歩前のマークを踏み、バーを見て加速する意識で駆け込むことができるようになりました」と進歩を自覚できた。22年は世界陸上オレゴンに初出場。初の世界大会で緊張も大きく予選落ちしたが、翌23年の世界陸上オレゴンは予選を通過し、決勝でも8位に入賞した。

23年は2月のアジア室内選手権で優勝し、国際大会の経験を積んでいた。林コーチは当時、「踏み切り前5歩のリズムが安定し、減速率が小さくなっていました。昨年(22年)はまだ一生懸命走っている助走で、良かったり悪かったりバラつきがあった。今は高いスピードで、リズム良く踏み切りに入って行けています」と語っていた。

そしてパリ五輪での5位。助走最後の5歩の精度を上げることで、世界との距離も縮められた。林コーチはパリ五輪を次のように振り返った。
「競技中、技術的なアドバイスはほとんどしませんでした。2m27の1回目を落としたときだけです。踏み切り前の5歩がちょこちょこした走りになっていたことを指摘しました。それ以外は試合の雰囲気の話ばかりしていましたね。楽しんで来い、と。赤松はずっと笑っていましたし、試技前は“跳んでやるぜ”という表情でした」

赤松がパリ五輪を楽しむことができたのは、助走最後の5歩を速く走り込む準備ができていたからだ。それが可能になったのは地方大学の恵まれない環境で、走るメニューをやり続けていたことがスタートだった。そこから林コーチと二人三脚で、助走と踏み切りを長い年月をかけて進化させてきた。

パリ五輪は赤松が「一番楽しんだ」試合であり、林コーチの技術的なアドバイスが「これまでで一番少なかった試合」でもあった。それは林コーチの姿が、スタンドの最前列にあったからできたことだった。
男子走高跳の歴史的な快挙は、ひたすら助走を突きつめてきた2人の努力で達成された。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)

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