開催中の大相撲秋場所で、39歳の幕内玉鷲が通算連続出場歴代1位を記録した。2日目の9日にそれまでの記録保持者だった元関脇青葉城の1630回に並び、3日目の10日以降、単独1位として数字を伸ばしている。2004年初場所の初土俵以来、足掛け21年。怪我や体調不良、落ち込む気持ちを吹き飛ばし、1度も休むことなく不屈の土俵を歩んでいる。

相撲には負けたが、「おめでとう」のボードが打ち振られた2日目の国技館。支度部屋に戻ってきた本人はご満悦だった。「頑張ってきてよかった。(記録は自分への)いいご褒美。自分1人ではここまで来ることは出来なかった。周りの人たちのお陰です」
 
通算出場、通算勝利、幕内出場、幕内勝利など、ほとんどの記録で現役1位を誇るが、文字通り「鉄人」を意味する新弟子時代からの連続出場で相撲界の歴代の頂点に立った気分は、格別だろう。単独の記録保持者になった3日目には「優勝したような気分。これからも自分らしい、荒々しい相撲を取り続けたい」と意気込みを見せた。

同じモンゴル出身で40歳まで現役で、幕内出場記録歴代1位の1470回を持つ大島親方(元関脇旭天鵬)も「玉鷲はこの感じだったら、まだまだ行けるんじゃあないの。体が全てだけど、まだバツバツだもの」と太鼓判を押した。

力士が自らを合わせて4人しかいない片男波部屋(師匠・元関脇玉春日)での稽古では、序二段の2力士を一度に相手にするなどの工夫がなされている。「もう2年はやりたい」という玉鷲の活躍を見ながら、今年5月に76歳で亡くなったある力士を思い出した。相撲協会が発表する毎場所の歴代力士10傑記録表の1番左上、「通算出場記録」で1位に記されている元小結大潮のことだ。

福岡県北九州市出身。14歳だった1962年初場所に元横綱双葉山が師匠だった時津風部屋から初土俵を踏んだ。そこから40歳ちょうどだった88年初場所まで務め、最後は西幕下筆頭で2勝5敗。十両返り咲きがならずに引退した。「体力の限界。自分自身の青春を完全燃焼したいと思い、燃え尽きた。40歳まで現役という目標を達成できて、誇りに思う」と当時コメントしている。

現役時代は186センチ、143キロ。左四つからの速攻が得意だった。通算出場回数は先ほども記したように現在も歴代1位の1891回。通算勝利数は、当時は1位、現在は4位の964勝をマークしている。この数字で上にいるのは元横綱白鵬1187勝、元大関魁皇1047勝、元横綱千代の富士1045勝の3人だけで関脇以下ではもちろん1位だ。幕内51場所、十両55場所。例のない13度の入幕記録も持つような土俵人生で、コツコツと白星を増やして行った。

誠実で物静か。当時、新人記者だった筆者らにも支度部屋では「大丈夫ですか。取材してもらってありがとう」と丁寧に応対してくれた。

その頃はベテラン力士が土俵に上がり続けることが今のように評価されることが少なく、逆に同時期に角界に君臨していた横綱北の湖の通算951勝(歴代5位)よりも勝利数で上にいたことで、批判めいた声まで出ていたことを覚えている。

確かに内訳が横綱で670勝、三役以上で742勝、幕内で804勝している北の湖と、三役以上は1場所で3勝、幕内通算で335勝。十両以下で629勝の大潮を単純に比較するのは難しいだろう。だが、土俵にかける思いは引退する場所まで真剣そのものだった。高齢になると、稽古の手を抜く力士も多いが、そんなことは一切なかった。

体調には人一倍、気を使い、こだわりも持っていた。「クーラーの風は体によくない」と夏巡業でも移動するバスの冷房を入れさせないため、同乗する力士らからは苦情の嵐だったそうだ。39歳5か月という再十両昇進の高齢記録も驚異的だ。苦楽をともにした妻にも引退を告げたのは、当日の朝だったという。金星は3個。一つは輪島から、二つが北の湖からだった。「一番の思い出はその北の湖関から取った二つの金星。あきらめちゃあいけないことを学びました」と話す時はいつも嬉しそうだった。

(竹園隆浩/スポーツライター)

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