10月24日(木)に迫るプロ野球ドラフト会議―。ことしのドラフトで最も注目を集めているショートで、広島カープが1位指名を公表している 宗山塁 のルーツに迫ります。
広島出身、明治大学のキャプテン・宗山塁 。ことしのドラフトの “超目玉” は、広島県三次市三良坂で生まれ育ちました。
明治大学 4年 宗山塁 選手
「自然も多いので、どこでも体を動かせる環境があったりとか、雪の練習もそうですし、外で遊んだり、体を動かすことっていうのも本当にいつでもどこでもできるような感じだったので、昔、そういうことをちゃんとやっておいてよかったなっていうのは今、思います」
大自然に囲まれ育った塁少年。“金の卵” が野球に興味を持つきっかけを作ったのは、広陵高校野球部OBの父・伸吉さんでした。
父 宗山伸吉 さん
「小学校に上がる前は家で遊んだり、よくしていたんですけど、遊ぶっていうと、だいたい野球をしていたので。野球…、おもちゃのボールとバットでわたしが投げて、塁にいっぱい打たせて。やっぱり野球って打つのが楽しいじゃないですか。最初は打つことからやっていたら、もう完全にハマってくれましたね」
宗山塁 選手
「自分の父がチームのコーチをしていたので、小学校に入学する前から練習に行ったりしていて、入学と同時に入部してっていう感じでしたね」
塁が入部したのは、地元の「三良坂少年野球クラブ」。当時、チームのコーチをしていた父親の伸吉さんは、息子が技術を身に付けるスピードに驚きました。
父 宗山伸吉 さん
「 “野球脳” っていうか、とにかく覚えることが早いんですよ。そこはすごかったです。ずば抜けていましたね」
吉倖 吉村慎次郎 さん
「小学校1年のときからもうずっとレギュラーで試合に出ておりましたので、『どしたん、この子は!』みたいな感じですよね、逆に言ったら」
吉倖 吉村央 店長
「食欲だけですね、ふつう並みは。あと、野球とかなんかではもう本当に子どものときから別格ですね」
週に2回のチームの練習以外も毎日欠かさず自宅で自主練習をした野球少年は、6年生のときに当時、目標としていたカープジュニアに選ばれました。
そのときの帽子は今でも大事に保管されています。帽子のつばには当時のカープジュニアの監督だった 山崎隆造 さんのサインが書かれていました。山崎さんは、当時の “ダイヤの原石” の輝きを今でも覚えています。
RCC野球解説者 山崎隆造 さん
「小学校6年でもいわゆる身のこなしっていうところがやっぱり際立っていたというか、感性豊かな、センスある動きをしていたなっていう印象が残っていますよ」
中学時代は、父親が車で往復3時間かけ、広島市内のクラブチームに通った宗山。
高校は父の背中を追いかけ、広陵に進学。1年生の夏からベンチ入りをし、甲子園や神宮大会と、下級生から全国の舞台で活躍しました。
広陵高校 中井哲之 監督(2020年)
「笑顔10連発に自信がある人」
宗山塁 選手(当時 高校3年)
「(部員を前に “笑顔” …)」
宗山が3年の夏、新型コロナウイルスの影響で甲子園は中止に。息子の高校最後の大会を外野スタンドから見守った父親の伸吉さんは、「塁は不遇な経験も力に変えられる」と信じていました。
宗山塁 選手(当時 明治大学 3年)
「この中でもレギュラーを張っていけないと、それより上には行けないと思っているので、このチームの中でどれだけ自分の力をいつもどおり出せるかなと思っているので、準備からしっかりそういったところにも意識を向けてやっていきたいと思っています」
4年春にはプロに混ざり、トップチームの日本代表に選出されましたが、オープン戦でデッドボールを受け、右肩甲骨を骨折。春のリーグ戦の途中には右手中指を骨折し、野球人生で初めてけがで試合に出られないくやしさを味わいます。
しかし、リーグ戦にベンチ入りした宗山は、仲間にゲキを飛ばしたり、アドバイスを送ったり、キャプテンとしての仕事をやり切りました。
明治大学 4年 宗山塁 選手
「ベンチにずっと入れてもらっていたので、そこにいながら試合に自分が出られない気持ちっていうのを、けがで出られないのは初めての経験だったので、もどかしさが一番強かったですね」
この秋、けがが治った宗山はさらにスケールアップ。リーグ通算10本目のホームランを放つと、現在、歴代8位タイのリーグ通算116安打、打率.391と圧倒的な結果を残し、運命のドラフトを迎えます。
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