5月に右腕を手術で切断 退院後に左投げへの挑戦を表明
佐野さん「これは第一歩 次はもっと格好よく」
糖尿病の“怖さ” 右腕への思い
“ピッカリ投法”誕生秘話
左投げでの“ピッカリ投法”の陰で
注目
《始球式での“ピッカリ投法”の様子》
佐野さんは1991年にドラフト3位で近鉄に入団しプロ野球で主に中継ぎとして合わせて11年間プレーしました。プロ通算41勝、27セーブをマークし、2003年に35歳で現役を引退しました。その後、糖尿病を患い、去年4月には合併症の1つで重度の血流障害である「重症下肢虚血」と診断されたということで、右足の中指を切断する手術を受けました。さらに右手の血流も滞るようになったということで、去年12月には右手の人さし指と中指、ことし5月には右腕を切断する手術を受けていました。退院後には、左投げに挑戦する意志を自身のブログで明かしていて、リハビリを続けながら始球式を目指していました。
21日は東京の神宮球場でみずから運営に携わっている少年野球大会が開催され、佐野さんは車いすに乗ってグラウンドに姿を見せました。腰の感染症の治療で入院していましたが、一時的に外出の許可を取ったということです。
金色のグラブをつけた佐野さんはマウンドの少し前で立ち上がって大きく振りかぶり、現役時代に名付けられたという“ピッカリ投法”で、帽子を飛ばして左腕で投げました。ボールはワンバウンドでしっかりとキャッチャーに届き、集まった子どもたちやスタンドの観客から大きな拍手が送られていました。
佐野さんは始球式での左投げでのピッチングについて「本当はもっと格好よく投げたかったのでマイナス10点だ。でも、少しでも元気を伝えられたのであればうれしい。これは第一歩なので次の機会があればもっと格好よく、今度はストライクが投げられるように頑張りたい」と話しました。今後に向けては「これをきっかけにキャッチボールもできるようになって、もう一度、全国をまわって野球教室をやりたいという夢があるので頑張りたい」と決意を話していました。最後に子どもたちに向けて「僕は大好きな野球を子どものころからやって、どんどんチャレンジしてプロ野球選手になれた。引退したあとも携わることができて野球が嫌いになったことはなかった。だからこそ、子どもたちにも一生懸命に野球に取り組んでもらいたい。野球って楽しいなと感じられるようにどんどんチャレンジしてほしい」とメッセージを送っていました。
佐野さんが「糖尿病」と診断されたのは、現役を引退してから5年ほどたった40歳のころでした。その後は生活習慣を見直して治療を続けながら定期的に検査を受け、高かった血糖値などの数値も下がり、安心していたと言います。しかし、6年ほど前に異変が起きました。食欲がなく食事の量も減っている中で体重が増え、歩くことも難しくなりました。診察を受けた結果、心不全と診断されたということで緊急入院。その後は、心不全で入退院を繰り返したと言います。人工透析が必要になり糖尿病に関する数値も安定してきたと言いますが、去年4月、右足の指先にできた小さな傷をきっかけに、足の裏に痛みを感じるようになり「重症下肢虚血」と診断されたということです。緊急処置として右足の中指を切断する手術、さらに去年12月には右手の人さし指と中指の2本を切断する手術を受けました。数週間で指先はえ死し、激痛に耐えながらたまったうみを取り除く治療を続けたもののその範囲は、日ごとに広がっていく状況だったということです。「生き延びるためにはやむを得ない」これまで野球生活と人生をともに歩んできた右腕を切断する決断をしました。当時の心境について「右腕は“相棒”のような存在で現役の間も痛めないように気も遣ってきたし思い入れがあった。守れなくて申し訳ない、その思いだけだった」と振り返ります。
指先の小さな傷をきっかけにおよそ1年の間に手と足の指、さらに右腕を切断する手術を余儀なくされた佐野さん。医師からは「糖尿病による動脈硬化や心不全の影響で、血液が指先に届かなかったことが原因だ」と伝えられたということです。病気や糖尿病の恐ろしさを身をもって知った佐野さんは「糖尿病が発覚して以降は、食事や運動などに気をつけていたし数値も安定していたが最悪な状態になった。これは1度でも糖尿病と言われた人なら誰にでも起こり得ることだそうです。“絶対大丈夫”ということはなく、どうか甘く見ないでほしい。健康第一で、自分の体に寄り添ってほしい」と話しています。
佐野さんの『ピッカリ投法』は、帽子を落とし、薄い頭髪を見せて相手のバッターを惑わせます。この投法、実は偶然に誕生したことはあまり知られていないかもしれません。1995年8月26日、佐野さんが所属していた近鉄は、相手のオリックスのピッチャー・佐藤義則さんに当時、最年長記録となる40歳11か月でのノーヒットノーランを達成されました。この試合は佐藤さんが好投を続ける一方、近鉄のリリーフとして登板した佐野さんは簡単にツーアウトを取りました。打席に迎えたのが当時オリックスの選手だった中嶋聡さんでした。点差も開いていたことから、ふだんはやっていなかったという「ワインドアップ」で、腕を大きく振りかぶって投げたところ、思ったよりも球が速く149キロが出たと言います。佐野さんは少し色気を出して「150キロを出してやろう」と再び思い切って振りかぶったその時でした。たまたま手が当たった帽子が浮いて、薄い頭髪がバッターと審判から見えたのです。気付いたときにはタイムがかかっていて、バッターと審判が必死に笑いをこらえていたと言います。その翌日の試合前の練習。「バッターの中嶋に『お前、せこいぞ。あんな笑わせて打ち取る方法があるか』と言われたんです」と明かしてくれました。
この出来事をきっかけに注目を集めた投げ方は“ピッカリ投法”と名付けられ、オフシーズンや引退後の試合のたびに披露し、子どもたちから大人まで多くの野球ファンに笑顔を届ける投法となりました。佐野さんは「まさか人生の糧になるとは思わなかった。偶然に起きたことだが広く認知されるようになって、たくさんの人が笑ってくれるというのはすごくうれしいことなので。私の投法を通じて野球って楽しいものなんだとわかってくれたら、この上ない生きがいです。ピッカリ投法ありがとう、頭髪が薄くてよかったなと思う」と笑顔を見せながら話していました。
一緒に人生を歩んできた“相棒”の右腕を失った佐野さん。手術から2日後には、左投げでの“ピッカリ投法”を宣言していました。持ち前の「気持ちの切り替えの早さ」と、同じような病気や障害のある仲間たちからの励まし、野球人としての意地でした。手術が終わって初めて右腕のない姿を鏡で見たとき、“相棒”がなくなったことへの戸惑いがありました。それでも「ネガティブな気持ちになるのがすごく嫌だった。強がりでもいいからポジティブにいよう」とすぐに気持ちを切り替えられたと言います。そこにはリリーフピッチャーとしてプロの世界で戦い抜いてきた経験が生きていました。
佐野さん「自分が打たれて負けても次の日には試合があって、投げなければいけないのがリリーフピッチャーなので。右腕がないのを受け入れないといけないのはわかっていた。くよくよしたってしかたがない。元々、強がりなタイプだし、命あるかぎり強がっていようと思った」
さらに同じような病気や障害のある人たちから「一緒に頑張りましょう」とか「佐野さんの姿を見て病気に向き合いたいと思います」などという多くのメッセージが届けられ勇気づけてくれたと言います。手術を終えて気付いたときには左腕で投げる動作を始めていて「左だったら、まだ投げられるかもしれない」と感じ、手術2日後のブログには『今後の目標』と題して「左投げでピッカリ投法をやります」と宣言しました。当時の心境について「どうせ挑戦するならキャッチボールができるくらいまでになって、もう一度、野球教室などで子どもたちに野球を教えたい。“ピッカリ投法”は交流する際にもってこいなので左腕でもやろうと思った。強がりではあるが1つのポジティブなモチベーションになった」と振り返ります。その後、自身が運営に携わる少年野球大会に始球式の場が設けられ、新たな目標が出来ました。
退院後は心臓弁膜症の影響で心臓の動きが良くないと言われる中でトレーニングを続け、先月14日には左投げでの投球を始めました。しかし、およそ1週間後に腰の細菌感染による炎症で再入院し手術。それでもリハビリを続けて、21日も入院中でしたが、6時間だけ外出を許可され、始球式で左投げの“ピッカリ投法”を披露しました。
佐野さん「きょうの始球式はあくまで通過点。“佐野ってやっぱり野球人だよね”とずっと言われていたい。まだまだ野球を通じて、自分がチャレンジする姿を届けたいし、野球の楽しさをたくさんの人に伝えたい。できる、できないはあるとは思うが、チャレンジする意志があれば、どんなことでも成長できると思うので決して下を向くことなく、どんどん失敗して、どんどんチャレンジして、成功体験を増やしていってほしい」
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