20年ぶりに紙幣のデザインが刷新されて2カ月が過ぎた。新1000円札に描かれた熊本県小国町出身の北里柴三郎(1853~1931年)は、細菌学の分野で多大な業績を挙げたことで新紙幣の「顔」に選ばれたが、北里柴三郎記念館(小国町)の館長を務めるひ孫英郎(ひでろう)さん(67)は「福沢先生がいなければ柴三郎はお札にならなかった」と断言する。「福沢先生」とは旧1万円札に描かれている福沢諭吉(1835~1901年)。2人にはどんな関係があったのか。
諭吉は大分県中津市出身で、慶応義塾を創設した思想家。「学問のすゝめ」の著者としても知られる。北里より年齢は18歳上だ。
熊本医学校、東京医学校(現東大医学部)で学んだ北里は内務省衛生局に入り、1886(明治19)年、伝染病対策を研究するため国費でドイツに留学した。世界で初めて破傷風の純粋培養に成功するなど数々の功績を挙げて帰国した。
衛生局に復帰した北里は日本の衛生環境の悪さを訴え、伝染病研究所設立の必要性を力説するも、反応は鈍かった。背景には、日本の細菌学の権威である緒方正規(1853~1919年)が脚気の原因を細菌だと報告し、留学中の北里がこれを否定したことがあるとされる。北里の主張は正しかったが、緒方は同じ熊本出身で細菌学の先輩。北里は情がないとして森鴎外からも非難され、医学界から冷遇された。
窮状に手を差し伸べたのが諭吉だった。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の言葉を残した諭吉。先輩後輩といった私情より、平等で偏らずに真理を究めようとした北里の信念に共感したようだ。私財を投じて日本初の伝染病研究所を立ち上げ、北里を向かい入れるなど生涯にわたって支援した。
伝染病研究所が足がかりとなり、北里はペスト菌を発見した他、さまざまな治療法を開発して伝染病から人々を救うなど業績を広げた。一方で諭吉への「報恩」の精神を貫き、諭吉の死後、慶応大学部医学科(現慶応大医学部)が開設されるにあたり、初代医学科長を無償で引き受けている。
ただ、こうした関係に加え、英郎さんは「小国生まれの柴三郎と中津育ちの福沢先生。互いに方言で話し、信頼関係を築いたのでは」と指摘。同じ九州出身で、方言が似ていたことが2人を結びつけ、絆を深めた一因だと思いをはせる。
新紙幣の肖像画は恩師からのバトンタッチとなったが、英郎さんは「福沢先生は先にフェードアウトしてしまうが、大事なことは福沢先生の気持ちも柴三郎の1000円札に込められていることを覚えていただければ」と語る。日本の近代医学を切り開いた曽祖父とその恩師が今、同じ財布の中にいることに、英郎さんは感慨深げだ。【野呂賢治】
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