◆不自然な、1本の動画
手錠をかけられた自由の女神の衣装で、自由が失われたカンボジア社会を表したデモ参加者=東京・日比谷公園で
20日、東京都心で「在日カンボジア救国活動の会」が、祖国での人権の尊重や政治犯の解放を求めてデモを実施した。会の代表を務めていたハイ・ワンナー氏(38)の姿はなかった。デモには在日カンボジア人ら100人以上が参加したが、同会幹部は「過去のデモと比べて人数が少なく、雰囲気も重かった」と漏らした。 会員らを落胆させたのは18日、フン・セン氏のフェイスブック(FB)ページに投稿されたハイ・ワンナー氏の動画だ。 「フン・セン前首相やフン・マネット首相に謝罪させてください。(野党指導者の)サム・レンシー氏と手を切ります。人民党の政治活動に参加させてください」と表明。「過激な政治活動はやめましょう」と政権批判を控えるよう呼びかけた。◆弟が母国で拘束された後、特使が来日「動画を撮れ」
元々は留学生だったハイ・ワンナー氏は日本国籍を取得し、フン・セン親子の強権支配に抗議する活動を主導してきた。ハイ・ワンナー氏(右)と弟のハイ・ワンニット氏=東京都内で
関係者や現地からの報道によると、ハイ・ワンナー氏は7月、フン・セン氏に国営テレビで名指しされ、「家族がカンボジアに残っているのを忘れるな」と脅迫めいた発言を受けた。8月中旬、政治活動と無関係だったものの危険を感じて亡命を図った弟で公務員のハイ・ワンニット氏(28)が拘束された。そして、フン・セン氏の特使として人民党員らが来日。動画の撮影を迫ったという。 ハイ・ワンナー氏は今月29日、「こちら特報部」の取材に「弟は解放されて元気だが、私がフン・セン氏に会いに行かない限り、国外に出られない」と明かした。 特使には謝罪のほか、望んでいない人民党入党やサム・レンシー氏批判まで求められたようだ。動画について「弟の解放のため唯一の選択肢だった」と述べ、複雑な心情をにじませた。◆なめられる日本「これぐらいやっても支援や投資をしてくれる」
カンボジアの人権状況について話す露木ピアラ氏
「やっぱりそうなるかと思いつつ、寝られなかった」。同会の暫定代表に就いたカンボジア出身の露木ピアラ氏(44)は動画を見た時の衝撃を振り返る。 露木氏は、弟を拘束されたハイ・ワンナー氏から相談を受けていた。「病人のように顔色が悪かった」と、家族を人質にされた同氏の苦悩ぶりを語る。 「最近、政権側がいろんな手段で圧力をかけてくる」と露木氏は警戒する。昨年来、抗議活動をSNSで発信した会員の実家が、夜中に石を投げ付けられたり、ドアのガラスをたたき割られたりする事例も起きているという。 「母国には言論や集会の自由がない。海外の私たちが発信しないと国際社会は実情に気づかず、独裁化がどんどん進んで、ポル・ポト時代のようになってしまう」と露木氏は強調し、日本での活動が弾圧対象になる状況を危惧する。「カンボジアの政権は『これぐらいやっても日本は開発支援や投資をしてくれる』となめている。日本政府は毅然(きぜん)とした態度を見せてほしい。日本国籍取得者も弾圧を受けているのに、何もしないのはおかしい」カンボジアの独裁化に反対するプラカードを手にするデモ参加者=東京・日比谷公園で
◆日本から帰国した野党党首は逮捕、インタビュー答えた党首は賠償2億円
カンボジアでは2017年、サム・レンシー氏らが率いる最大野党の救国党に最高裁が解党命令を出した。選挙管理委員会は昨年7月の下院選と今年2月の上院選で、書類の不備を理由に、救国党の流れをくむ有力野党「キャンドルライト党」の参加を認めなかった。 この結果、下院選は人民党が125議席中120議席を獲得。選挙後、38年間首相を務めたフン・セン氏に代わり、フン・マネット氏が首相に就任した。上院選では人民党が58議席中55議席を獲得し、フン・セン氏は上院議長になった。 一族支配の色彩が増す中、今年に入ってからは、日本での活動を理由に、ハイ・ワンナー氏に限らず、政権に批判的な人々が相次ぎ当局の標的になっている。東京都心をデモ行進する在日カンボジア人ら
5月、日本での集会で、カンボジア政府の貧困対策で政治的差別があると演説した野党「国民の力」のスン・チャンティー党首が、帰国後に騒乱の疑いで逮捕された。 7月には、訪日中のインタビューでのフン・セン氏やフン・マネット氏への批判が名誉毀損(きそん)罪に当たるとして、カンボジアの裁判所がキャンドルライト党のティアウ・ワンノル党首に、政府側への60億リエル(約2億円)の賠償を命じた。◆外務省「状況は承知」そして「コメントしていない」
こうした状況に対し、日本政府は声明などを出していない。外務省南東アジア第1課の担当者は取材に「状況は承知し、注視している」としながら、評価については「コメントしていない」と示さなかった。 カンボジアの市民社会を研究する昭和女子大の米倉雪子教授は「人民党が脅威と感じているキャンドルライト党関係者への圧力を特に強めている」という見方を示す。当局が逮捕者を拘束し続けずに保釈したり、他の野党への弾圧が弱めだったりする面もみられるとして「人権を重視する西側諸国に配慮し、支援や投資をつなぎとめる狙いがあるのでは」と話した。自由や民主主義、政治犯の解放を求めるデモ参加者
最近、キャンドルライト党が他の独立系野党と選挙協力を探る動きもあるといい、「人民党は現段階で容認しているようだが、今後どう対処するかは不透明だ」と述べた。◆民主化の後退や人権侵害への批判を避ける日本政府
カンボジア政治を研究する新潟国際情報大の山田裕史教授は「人民党政権は国内での弾圧を続け、野党勢力をほぼ無力化させた」と説明。野党政治家らは国外に出て、カンボジア人移民らとともに政府批判をしているとして「ここ数年は国外への締め付けが厳しくなっている」と話した。 具体的な手法としては、閣僚を含む人民党幹部が大使館と連携して各国の情報を収集し、政権を批判した政治家らを帰国後に逮捕するほか、デモなどに参加した市民を撮影し、母国の家族を特定した上で脅迫や嫌がらせをしているという。白い服に手錠をつけ、潔白な市民が逮捕されている状況を表現したデモ参加者
日本政府は1990年代から、カンボジアの民主化を支援しているが、欧米諸国と異なり、民主化の後退や人権侵害を表立って批判していない。山田教授は「市民には、日本のこれまでの支援に感謝する思いがあるものの『日本は独裁を黙認している』という認識も増えている」と指摘した。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)の笠井哲平アジア局プログラムオフィサーは、国外にまで広がるカンボジア政府の弾圧について「日本であれば国籍に関係なく誰もが保障されるべき表現や集会、結社の自由を侵害している」と批判する。 最近の弾圧への態度を明示しない日本政府に対しては「世界の人権状況の改善を目指す外務省の『人権外交』の姿勢と矛盾している。首脳会談など公の場で問題点を指摘すべきだ」と訴えた。◆デスクメモ
表現の自由が保障された日本での言動が弾圧の対象とは、看過できない。にもかかわらず政府の反応は鈍い。中国への傾斜を恐れ、注文をつけられないのか。カンボジアPKOで日本は2人の命を失った。犠牲の重さも踏まえ、民主化の後退は容認できない。物を申さぬ選択肢はない。(北) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。