第2次世界大戦後の冷戦を象徴したベルリンの壁が1989年11月に崩壊してから、9日で35年を迎えた。東西ドイツの再統一で誕生した新生ドイツは欧州の大国として存在感を増したが、近年は極右とされる勢力が国内で支持を伸ばすなど再び分断の足音が迫る。統一は何をもたらしたのか。ドイツ政治に詳しい名古屋大大学院情報学研究科の中村登志哉教授に聞いた。(聞き手=竹田佳彦)

ベルリンの壁の崩壊後、西ベルリンで記念撮影する人々=1989年11月(吉岡逸夫撮影)

◆地方議会ではポピュリスト政党が躍進

 今年9月、旧東ドイツのテューリンゲンとザクセン、ブランデンブルクの各州議会選で、右派の「ドイツのための選択肢(AfD)」と左派の「ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟(BSW)」が躍進した。ともにウクライナへの武器供与反対や移民排斥を掲げ、左右は異なるがポピュリスト政党だ。

ドイツ・ベルリンで開かれたAfDの集会=2021年9月(藤澤有哉撮影)

 ドイツでは8月、難民申請を認められず強制送還予定だったシリア出身の男による7人殺傷事件が発生。移民・難民への拒否感が高まっていたが、今も残る東西ドイツ間の格差も伸長の背景にある。

◆周辺国に配慮、統一後は軍の運用を自制

 壁の崩壊は、1961年に建設が始まって以来分断されてきた東西ドイツ間の人の移動を可能にした。  実際に統一したのは約1年後の90年10月3日。東独の自治体を6州に再編し、各州が西独のドイツ連邦に加盟する形をとり、西独の憲法にあたる基本法が統一後も適用された。  強大なドイツの復活を想起させる統一は、周辺国の警戒を引き起こした。ドイツは軍の運用を自制し、安全保障を北大西洋条約機構(NATO)に委ねることに。99年3月にコソボ紛争で「人道的介入」として戦後初めて、NATO域外に実戦部隊を派遣するまで、その姿勢は続いた。

◆教育や経済でなお東西に格差、分かれる評価

名古屋大大学院情報学研究科付属グローバルメディア研究センター・中村登志哉教授

 統一直前の東西ドイツの経済格差は大きく、通貨の実勢交換比率は西独1に対して東独は4~5。統一と同時に通貨統合を実施した結果、東側で重工業を中心に倒産が相次いだ。旧東独地域再建のため、政府は多額の資金を投じてきた。  統一通貨ユーロの導入を経て、ドイツは欧州最大の経済国となった。9月時点の失業率は旧西独地域の5.7%に対し、旧東独は5.9%。曲折はあったが、統一は総じてうまくいったと思う。しかし課題も多く、高等教育機関や優良企業は西側に偏り、東側から若者の流出が続く。往時を知る人は「よくここまで格差が解消した」と思うが、「同じ国なのに、なぜ差があるのか」と不満を募らす若者もいる。

◆移民・難民の受け入れ、ロシア・中国との関係…新たな転換点に

ドイツのショルツ首相=2022年4月(朝倉豊撮影)

 第2次大戦のホロコーストの経験から、ドイツは基本法で人道主義を掲げ、統一後も受け継いできた。2015年の欧州難民危機では、メルケル首相(当時)が移民・難民の積極的な受け入れを表明、ドイツに流入した移民・難民は100万人に達した。  さらに天然ガスや石油の輸入を依存してきたロシアがウクライナに侵攻したため、関係が悪化。燃料費は上がっている。旧東独市民の中には「国民の支援に使うべき財源が難民らに使われている」と不満の人もおり、政府もそれに応えられなくなっている。  歴代のシュレーダー、メルケル政権は、ロシアや中国と経済的な関係を深めてきた。相互依存が地域安定につながると考えたためで、1960~70年代にブラント政権がとった東方政策の「接近による変化」の考え方に由来する。しかしロシアのウクライナ侵攻で、この政策は破綻した。貿易での支払いが侵攻の戦費に使われたとの批判が国内外であがり、緊張が高まる台湾情勢でも中国の戦費に使われかねないとの懸念が広がる。  壁の崩壊から35年。国際情勢が大きく変わる中、2022年2月にショルツ首相が連邦議会で演説した通り「時代の転換点」に来ている。

 なかむら・としや 同志社大卒、オーストラリアのメルボルン大政治学研究科博士課程修了、博士(政治学)。専門は国際関係学、政治学。



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