4月、韓国内に墓がある2人の日本人の追悼行事がそれぞれ営まれた。日本の植民地時代、朝鮮半島の緑化や民族文化の保存に尽くした浅川巧(1891~1931年)と、南東部の大邱(テグ)に貯水池を築造した水崎林太郎(1868~1939年)。どちらの行事も、地元の韓国人らによって連綿と続いており、日韓友好を願う両国の有志が集う場になっている。(ソウル支局・木下大資)

4月2日、浅川巧の追慕祭であいさつする在韓国日本大使館の川瀬和広公報文化院長(左)=木下大資撮影

◆「韓国の山と民芸を愛した」林業技術者・浅川巧

 ソウル郊外の忘憂里(マンウリ)公園墓地にある浅川の墓。丸く土が盛られた韓国式の墓の横に、「韓国の山と民芸を愛し韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」とハングルで刻まれた碑文がある。  浅川は山梨県出身で、23歳で日本統治下の朝鮮に渡った。林業技術者として現地の風土に合った育苗法を開発し、荒廃した山林の再生に貢献。朝鮮の陶磁器や民芸品に美を見いだし、収集と研究に努めた。朝鮮語を流ちょうに話して朝鮮人に慕われ、葬儀の際は「棺(ひつぎ)を担がせてほしい」と申し出る人が後を絶たなかったと語り継がれる。

浅川巧=浅川伯教・巧兄弟顕彰会(ソウル)提供

 命日の4月2日に開かれた追慕祭には、日韓の文化人や外交関係者ら約40人が参加。顕彰会の李東植(イドンシク)会長(70)は「韓国人が困難な時に大きな愛情を注ぎ、理解し、代弁してくれた友人」と浅川をしのび、「その心がさらに広がってほしい」と述べた。  参列者によると、墓はかつて浅川の同僚だった韓国の林業試験場の職員らによって守られてきた。存在が広く知られるようになったのは1990年代で、顕彰会が結成されるなどして日韓の関係者の交流が盛んになった。浅川に関する書籍が両国で発刊されるなど、再評価の高まりが背景にあったようだ。  ◇ 

◆「国で人を区別しない精神で」貯水池を造築・水崎林太郎

4月12日、大邱で、水崎林太郎が造った「寿城池」近くで営まれた追慕祭=木下大資撮影

 一方の水崎は岐阜県出身。旧加納町(現在の岐阜市)の町長を務めた後、15年に開拓農民として大邱に渡り、地域の水不足解消のために貯水池を造ろうと決意。「恩恵を受けるのは朝鮮人ではないか」と渋る日本人官吏に怒り、朝鮮総督府に直接掛け合って工事費を調達したと伝わる。

水崎林太郎=韓日親善交流協会(大邱)提供

27年に完成した「寿城(スソン)池」のほとりに遺言に従い朝鮮式で埋葬され、親交のあった韓国人(故人)が長らく墓を守った。今は現地の韓日親善交流協会が、毎年桜の咲くころに追慕祭を主催している。  先月12日に墓前であった追慕祭で、同協会の李東根(イドングン)会長(58)は「国によって人を区別しない精神で池を造った。災難に遭うたびに支援し慰労を伝え合う日韓関係も、まさに同じ精神ではないか」と水崎の功績を振り返った。  岐阜や九州の日韓交流団体のメンバーらも訪れ、計30人余りが参列。ひ孫の水崎元宏さん(54)=岐阜県各務原市=は「多くの方に支えられて追慕祭が続いていることに感謝しかない。ここに集う仲間が増えていくことを願います」とあいさつした。    ◇   ◇    

◆現地の人と同じ目線に立とうとした人間性

 浅川巧と水崎林太郎。韓国にとって負の歴史である植民地期にあっても、2人が韓国人の「友人」だったと評価され、追慕の対象になっているのは、現地の人と同じ目線に立とうとした人間性によるところが大きいのだろう。  大邱の場合、統治側だった日本人をたたえることへの批判も一部である。すべての韓国人が同様に評価するとは限らないことに留意する必要はある。  二つの追慕祭で参加者たちの声を聞くと、日韓のくびきを超えて相手を尊重する先人の姿を、望ましい両国関係に重ねていた。歴史を巡る葛藤が絶えない隣国同士だからこそ、2人の存在が再発見されていると感じる。 

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