アクションスターとして活躍していたころ=1980年5月


2004年9月22日付の産経新聞に掲載した連載「話の肖像画」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。

《実は流暢(りゅうちょう)な英語を話す。一九九九年には日本人俳優として初めて英国ロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)に参加、「リア王」で道化(フール)役を演じ、舞台の本場・ロンドンで高い評価を得た。エリザベス女王から日英の文化交流に貢献したとして名誉大英勲章第五位(MBE)を授与され、国際派俳優としての道を歩き始める》

──ハリウッドでの撮影では、語学力でずいぶん現場のムードメーカー的役割を果たしたとか。語学はどこで?

真田 ロンドンでRSCのシェークスピア劇「リア王」に単独で飛び込んだときですね。それまでは日常会話程度だったんですけれど、ブリティッシュイングリッシュだとか、ましてやシェークスピア・イングリッシュは初めてだったもので。半年間、日本とロンドンを行ったり来たりしながら、五人のコーチに特訓してもらいました。

それでも、異国語を話しているプレッシャーが飛んで、本当に相手のリアクションを感じてちゃんとセッションできるようになったのは、七カ月のけいこ、本番を通して最後の二カ月間なんですよね。

《RSCに参加するきっかけは、リア王役の故サー・ナイジェル・ホーソンが、蜷川幸雄版ハムレットのロンドン公演(一九九八)を見て指名したからだった。大御所にその演技力が認められたわけだ》

──世界を視野に入れ始めたのはこのころから?

真田 世界はもっと前から視野には入れていましたし、意識していました。若いころはB級アクション系の役どころが多かったので、そういうオファーに偏りがちだった。でも、自分がアクションやっているのはアクションスターになるためではなかったですから。むしろ、“アクションの船”に乗っけられてしまうと、普通の俳優をやっていく上でマイナスになると思って、そういうのは遠ざけるようになりました。

《十三歳のとき、千葉真一主宰J・A・C(ジャパン・アクション・クラブ)に入団、二十歳で「忍者武芸帳 百地三太夫」の映画初主演で代役無しのスタントが話題を呼び、以降アクション俳優のイメージが定着。「龍の忍者」など香港アクション映画にも出演したが、「道頓堀川」(昭和五十七年、深作欣二監督)で年上女性とのラブストーリーを熱演、日本アカデミー賞新人賞を受賞、アクションからの脱皮を図る》

──ジャッキー・チェンになれたかもしれないのに。

真田 世界が求めるアジアはジャッキー・チェンであったり、ジェット・リーであったり、もしくはサムライ。すごく限られているじゃないですか。そうじゃなくて、時間がかかっても本業の芝居で世界に通用する役者になりたかった。世界に出るために何でもかんでも飛び付くというのはよそう。(ステロタイプ=固定的=じゃなく)ちゃんとした日本のものをもっていかなきゃと。それには出演作品や役選びは慎重にならなきゃいけない。(変な海外作品に出るくらいなら)日本でいい作品をつくり続けることの方が栄養になるなんて思ってましたね。ある種は、まだ世界で勝負できる自信もなかったし、時間稼ぎにもなったんですが…。

──じゃあ、今は機が熟したわけですね。

真田 ここ二、三年、いつチャンスがきてもいいように準備はできているつもりでいたところに、具体的な海外の仕事が増えてきました。少しずつ基礎をつくって進出していこうという思いがシェークスピア、そして世界につながったと思います。

(福島香織)

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