イタリア・ミラノは20世紀を代表するソプラノ歌手の一人、マリア・カラス(1923〜1977)と縁の深い都市だ。米ニューヨークに育ち、イタリアの芸術監督に見いだされ同国に渡ったカラス。1950年から11年の間に23作品に出演したミラノのスカラ座は、彼女がキャリアにおける黄金期を築いた場だ。生誕100年にあたった2023年から今年にかけ、街では記念する数々のイベントが開催されている。なかでも注目すべきはスカラ座博物館で4月30日まで開催中の展覧会「ファンタズマゴリア・カラス」だ。
現代アーティスト、作曲家ら異なる5分野の芸術家が、カラスが現代に遺(のこ)したものをテーマに作品をつくった。ファンタズマゴリアとは、舞台上に幻影を見せる演出手法。「彼女についての証言や追憶にみられるイメージの多様性」と重なるのだと、キュレーターのフランチェスコ・サッキさんは言う。
ファッションの分野からは、ジョルジオ・アルマーニさん作のイブニングドレスが展示されている。赤いドレスは、カラスの声に形を与えるものとして作られた。アルマーニさんはカラスの歌声を聞き彼女について想像を巡らせながら、どのようなドレスにするか決めたという。
胸元でバラの花を形作り緩やかに下に流れるシルエットは、柔らかで淡い光沢に包まれ優雅だ。堅さと透明感を持ち合わせた生地を使うことで、縫い目なしで彫刻のようなたたずまいを保つことを可能にしている。アルマーニさんは「私は彼女の声と歌だけでなく、人柄も映し出すドレスを選びました。それは情熱の渦、抑制、情緒、澄んでよく通る声です」と語っている。照明を落とした空間にドレスが鮮やかに浮かび上がり、舞台上のカラスの姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。
会場にはカラスの舞台衣装4点も展示されている。展覧会入り口で訪れる人を迎えるのはギリシャ悲劇を基にしたオペラ「メデア」の衣装で、画家サルヴァトーレ・フィウメの手描きによる幾何学的デザインが斬新だ。全盛期のスペイン宮廷を舞台にした「ドン・カルロ」の衣装は綿密な歴史的検証に基づき、刺繡(ししゅう)が全体に施された重厚なもの。いずれも当代一流のアーティストらが手がけた。
スカラ座の衣装部門責任者リータ・チッテリオさんは、カラスが着用した衣装の多くが博物館に保存されている理由を「他のオペラ歌手は衣装を自分で所有する場合が多かったのですが、カラスは決してそうしなかったから。作品から衣装を切り離さないという、彼女の演劇への最大限の尊重の表れではないでしょうか」と説明する。
一方、舞台の外でのカラスにとってファッションは、切っても切れないものだった。1949年に結婚してミラノに移り住んだ彼女は「ビキ」こと、デザイナーのエルヴィラ・レオナルディ・ブーユール(1906〜1999)のアトリエに通い始める。
ビキはミラノの上流階級に生まれ、親類には作曲家ジャコモ・プッチーニもいるという文化的にも豊かな環境で育った。ファッションではフランスが主流であった時代にイタリア発のファッションをつくった最初のデザイナーとして知られる。
初めてアトリエを訪れた時はビキの服が体形に合わず諦めたカラスだったが、何十キロともいわれる大幅な減量に成功したのち再訪、顧客となる。ビキの右腕だった娘婿アランは、ドレスから靴、アクセサリーまで彼女のワードローブすべてに番号をつけ、コーディネートを指示した。カラスはビキの従順な生徒で、装いのノウハウを吸収。「学んだことは以前から彼女のもの、生まれながらのもののように見えた。たとえば、ショールのまといかたの優雅さ」とビキは語ったという。
エレガントだがさりげない「ナチュラル・シック」がビキによる、ミラノ上流社会にふさわしいファッションだった。代表的なアイテムはひざ下丈のタイトスカート、裾がフレアーのワンピース、ウエストを絞ったスーツやシガレットパンツなど。つばの広い帽子やターバン、手袋、冬にはマフラーやショールなどを合わせる。ギリシャ系のカラスの、黒髪で目鼻立ちのはっきりした容貌を引き立たせるよう、ターコイズブルー、エメラルドグリーン、黒といった鮮やかな色のアイテムを取り入れたコーディネート「カラス・ビキスタイル」が生まれた。カラスがお手本としていたというオードリー・ヘップバーンとも、イメージは重なる。
ビキの顧客にはミラノの上流婦人だけでなくジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ソフィア・ローレンら国際的女優も名を連ねたが、もっとも代表的な存在はカラスだった。
58年にはもっとも洗練されたミラノの女性に贈られる「l'Abito d'oro」をカラスが受賞。欧州だけでなく米国のファッション誌も取り上げるようになった。生誕100年にあたってカラスのファッション特集が雑誌で組まれるなど、影響力は今も健在だ。歌と演技においてだけでなく、装いという自己表現にもあくなき向上心と完璧主義をもって臨み、努力をいとわなかったカラスが手に入れたもう一つの栄光だった。
スカラ座博物館館長ドナテッラ・ブルナッツィさんは「今も昔もスカラ座で上演されるオペラ作品の衣装はすべて、劇場縫製部門により手縫いで制作されるオーダーメードです。なかでもマリア・カラスのためには当時のもっとも優れたアーティストや衣装作家が奮い立ったことは間違いありません」と述べる。カラスのカリスマ性は公私双方の場面で同時代の多くの人々を惹(ひ)きつけ動かす力を持っていた。それは現代にも引き継がれている。
ジャーナリスト 高橋恵理
仁木岳彦撮影
[NIKKEI The STYLE 2024年4月21日付]
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