廃線前の八千代駅舎と客車を引いて到着した蒸気機関車=住民の土屋善勝さん提供

 北海道帯広市で農産物を運ぶ農業鉄道として1924(大正13)年に開業した「十勝鉄道」の終着駅で、57年に廃止された八千代駅の「転車台」などの遺構が12日、初めて一般公開された。土中に埋まった遺構を探し当て、掘り起こしたのは住民たちだ。携わった末下貞雄さん(88)は「唯一の『足』だった鉄道のことを伝えたくて。見つかった時は、そりゃあ感動した」と、満足そうに笑顔を見せた。

以前から地表に露出していた八千代駅ホームの縁石。この数十メートル先で新たに転車台とピットが見つかった=帯広市で2024年5月12日午前10時31分、鈴木斉撮影

 遺構が見つかったのは昨年6月初め。私有地で、一帯は樹木や雑草などに覆われていたため、公開できるように環境整備するまで時間を要した。公開日には住民や札幌、東京の鉄道ファンら約150人が次々に訪れた。

転車台の近くで見つかった「ピット」=帯広市で2024年5月12日午前10時35分、鈴木斉撮影

 住民が掘り起こした遺構は、鉄道車両の向きを変える際に使われた円形のコンクリート製の転車台(外径約4メートル)と、蒸気機関車の下部の点検や石炭灰の処理時に使用した「ピット」(幅約1メートル、長さ約5メートル、深さ約60センチ)。どちらも駅が廃止された後、歳月を経て土砂が堆積(たいせき)していた。

地面に鉄棒を突き刺しながら

 同駅のホームの縁石は以前から数十メートルにわたって地表に露出していたが、関連施設の調査などは行われず放置されていた。「埋まっている施設が絶対にあるはず。何とか探したい」と、住民が土地所有者の了解を得て、重機で約20センチの深さまで表土を除去。地面に鉄棒を突き刺しながら一帯を歩き、構造物の手応えを探った。

 同地区に住み、作業に加わった帯広百年記念館の元館長、北沢実さん(66)は「廃線から六十数年になり、列車や駅を覚えている人も少なくなった。いい状態で残し、『八千代駅跡』などの看板が設置できれば」と話した。

 末下さんは「そんなものはない、という声もあったが、諦めきれず、記憶を頼りに仲間と掘った。子供の頃、お盆に街中に来たサーカスを見るため、友達と列車に乗ったのが懐かしい。そんな時代があったことを伝えたくて」と目を細めた。

掘り起こした転車台に座る(右から)北沢実さん、末下貞雄さんら地域住民。奥の細長い遺構はピット=帯広市で2024年5月12日午前11時6分、鈴木斉撮影

 十勝鉄道は、北海道製糖(現日本甜菜(てんさい)製糖)が出資し、ビートなどの農産物を運ぶために開業された。線路幅が狭く機関車や車両も小型の「軽便鉄道」で、貨物と一緒に旅客輸送も行った。

 帯広市内では八千代線など帯広駅と畑作地帯を結ぶ三つのルートがあり、46年に清水町や鹿追町で運行していた河西鉄道と合併し、総延長100キロを超える道内最大の路線網を持つ私鉄になった。

 道路整備に伴い自動車輸送が拡大した影響で、77年までに全線が廃止された後は帯広貨物駅と芽室町の日本甜菜製糖芽室工場を結ぶ貨物専用線を運行していたが、2012年に同専用線も廃止された。十勝鉄道の「蒸気機関車4号」と「客車コハ23号」は市指定文化財として市内中心部に展示され、住民団体「とてっぽ機関車愛好会」が保存活用している。

 十勝地方の鉄道史を研究している浦幌町立博物館の持田誠学芸員は「住民が地域の歴史に関心を持ち、活動した意義は大きい。遺構は地域の宝であり、貴重な十勝の鉄道遺産になる」と話した。【鈴木斉】

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