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6月16日、東北楽天ゴールデンイーグルスが球団創設20年目にして初の交流戦優勝を果たしました。楽天球団が創設された20年前、2004年はプロ野球界にとって激動の一年でした。
きっかけは近鉄とオリックスの合併構想から端を発したプロ野球再編問題。球界を揺るがすのみならず政界や経済界からも注目を集める大騒動に発展しました。当時、選手会会長だった古田敦也さんが振り返ります。
そして「再編問題」を乗り越えて今日まで成長を続けた日本プロ野球界の未来を考えます。
<全4回の#1>

■プロ野球初のストライキ 古田さんの思い

2004年6月13日、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想が発覚。さらに、日本中を騒がせるプロ野球界の再編問題が巻き起こりました。

「“パ・リーグが5球団”“2リーグ制”について、(運営を行う上で)困難を伴う問題であります。したがって、10球団で1リーグ制もありえる」

合併理由の一つが、「球団の赤字経営」。近鉄とオリックス同様、オーナーたちは球団経営に頭を悩ませていました。中でも、近鉄は年間およそ40億円の赤字を抱え、観客の入りも多くはありませんでした。

そこでオーナー側は「球団の数を減らし、球界全体の赤字を改善させよう」と考えました。

突然のことに、当時の近鉄・梨田昌孝監督は「経営が苦しいのは聞いていますけど、シーズン中に話が出るとは思っていなかった」とコメントしました。

近鉄ファンからは「絶対反対ですね。伝統ある近鉄を潰して欲しくない」という声も聞かれました。

オーナー側が合併を既定路線で進める中、これに待ったをかけたのは選手会です。当時の会長は古田さんでした。合併構想が出た直後、古田さんは『報道ステーション』に出演し、思いを口にしました。

古田選手会長(当時)
「球団が減ると、やはりファンが減ることが間違いないと思います。やはりファンが減るってことは子どもたちや野球を目指す人たちが減る可能性があると思います。プロ野球界の発展を目指してやっていこうと思うんですが、合併がそういうものに繋がるのであればみんな納得できると思うんですよ。今のところ、そういう風に思いにくい」

選手会は「合併を阻止して、12球団・2リーグ制の維持」を求めました。球団削減なら選手、スタッフ、ファンはどうなるか。すると、球団買収を希望する会社が現れます。

「Jリーグがチーム数を増やしているのに、プロ野球は減らすのか。子ども達が夢を持って野球選手になりたいと言える社会が必要不可欠」
しかし、オーナー側の球団削減の意思は変わらず、球団買収は受け入れられませんでした。選手たちは合併反対の署名活動に奔走し、およそ120万人の署名が集まりました。

オールスターゲームで、選手は12球団のカラーを織り込んだミサンガを付け一致団結。古田さんは「来年も12球団でやりますよ」と述べました。
東京・大阪などでファンによる合併反対のデモ活動も起きました。選手会はファンの支持を集め、甲子園球場では敵地にもかかわらず阪神ファンによる「古田コール」が響きました。

マスコミ報道も過熱し、日本中が注目する話題となりました。当時の小泉純一郎総理大臣は『(野球界は)どうなっちゃうのかね。日本のプロ野球もっと盛り立てるように、球団も選手も考えてもらいたいね』と述べました。

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■“前代未聞のストライキ”あれから20年…

■“前代未聞のストライキ”あれから20年…

ついに、選手会は大きな決断をします。古田さんは『もし球団を削減される決定があれば、ストライキを行います。我々も戦わなければいけない』と述べ、球団削減が決まれば選手会はストライキを行うと宣言しました。 対話を繰り返しましたが、両者の溝は埋まりませんでした。戦う選手会会長の姿に、ファンからは「がんばってください」「がんばれー」「がんばってな、絶対よ、負けたらあかんねんで」と熱いエールが送られました。 迎えた9月18日、選手会はプロ野球史上初のストライキを決行しました。選手会として苦渋の決断でした。 古田選手会長(当時)
「野球を見せられなかったことに関してお詫びを申し上げます。どうも申し訳ありませんでした。皆さんが声を上げてくれたことが力になりました。これからもファンに愛されるべく、いいプロ野球にしていきたい」

ファンからは「目先の楽しみより選手会が決断したことなので、私たちファンはついていきます」、「ファンあってのプロ野球、選手会ってのプロ野球。うちらは選手のやることを支持します」という声が聞かれました。

前代未聞のストライキを経て、事態は進展しました。近鉄とオリックスは合併し、オリックス・バファローズに。そして、50年ぶりに新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生しました。この結果、12球団・2リーグ制は維持されることになりました。

あれから20年、今シーズンも多くのファンが球場に詰めかけています。ファンからは「(球場は)子供と一緒に見て楽しめる場所でもあり、ファンとして思い出に残るものをこれからも作ってほしい」という声も聞かれました。

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■選手会長 古田が見た激動の“2004年”

■選手会長 古田が見た激動の“2004年”

改めて当時、古田さんはどのような思いで動いていたのか振り返ります。 (Q. 当時、どんな思いで動かれていたのか?)
古田さん
「ファンあってのプロ野球だと思いますが、野球ファンに向けて説明もなく、理解を求めることもなく、親会社の都合で赤字が多いからやめる、減らすというのは、やはり簡単には受け入れられませんでした」 「選手会は労働委員会から認められた労働組合なので、労働法には『経営者と団体交渉をし、誠実にしなければならない』とあります。『説明してください』ということで話し合いになんとか持ち込みましたが、『これも決まっていることだから』と全然進みませんでした。『ストライキ』という言葉が後々出てきます。三カ月後ぐらいの話ですが、苦渋の決断をせざるを得ないという形になりました」 「その間、いろんなことがあって、ファンの皆さんが声を上げて、結局買いたいという会社や受け入れてもいいという自治体もあったのに、本当に減らすのかという議論が行われました。ファンの皆さんの応援もあり、最後は楽天が新規参入した形になりました」 「我々法律家から見ると、ストライキはもちろん権利だからやるんだろうなと思いながらも、(プロ野球選手は)個人事業主の集まりだから(という考えで)、もしかすると実現が難しいんじゃないかという声も多かったんです。それをやりきったというのは、やはりそれだけみんなの思いが一致団結したという特別な雰囲気だったんですね」 古田さん
「ただ労働組合なので、最後の交渉でうまくいかなければ、そういうこともあり得ると思ってやっていました」

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■「必死で生きてきました」グラウンド内外で“最前線” 打率は3割超

■「必死で生きてきました」グラウンド内外で“最前線” 打率は3割超

古田さん
「僕も(選手会)トップでしたが、よく分からない部分があったので、勉強しました」

球界再編問題のあった2004年、当時ヤクルトに在籍した古田さんの打撃成績は打率.306(自己6位)、24本塁打(自己2位)、79打点(自己3位)でした。
当時、古田さんは39歳。39歳での打率3割超えは史上3人目、キャッチャーとして史上初の快挙でした。

(Q. その時、どんな思いで試合をしていたのか?)
古田さん
「やはり注目度が高く、成績を落としたと言われるのも嫌だったので、すごく集中力を高めながら必死で生きていました」 松木安太郎さん
「さすが古田さんです。大谷翔平選手のようにプレッシャーが大変そうで、対抗するのはプロの選手としては最高だと思います。でも当時は相当つらかったのでは?」 「そうですね。だから、ファンの皆さんの声もありますし、本当に球団経営サイドの話も理解はできます。ただ、未来のために球界がこんなに良くなる。そのためにやるんだという理由付けがしっかりしていれば、理解を求めることができた」
「我々には説明もなく、もう決まっていることだという話で、よく分からなかったので、こういう結果になってしまって、本当にこの時のファンの皆さんにはご迷惑をおかけしたと思います」

そして2004年以降、「球界再編問題」を乗り越え、プロ野球界では様々な変化が起きました。

(6月23日放送「サンデーLIVE!!」より)

#2「交流戦・CS開始 変わり始めたプロ野球界 あれから20年「再編問題」を乗り越えて」に続く(22日10時配信予定)

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