高校野球の春季都大会を2年連続で制した帝京高校(東京都板橋区)はかつて、無名の弱小だった。チームを「東の横綱」と呼ばれるまでの強豪に導いたのは、2021年夏を最後に退任した名将・前田三夫(74)だ。「今日を励み 明日に挑む」。大切にする言葉の通り、選手とともに学び、挑戦を続けてきた前田の半世紀をたどった。
- 春2連覇の帝京、「飛ばないバット」でホームラン量産のわけ
やるからには、目標は高く――。高校時代あと一歩で甲子園を逃した、大卒の新人監督は、やる気に満ちあふれていた。1972年、大学を出たばかりの前田三夫は帝京高校(東京都板橋区)の事務職員になると、硬式野球部の監督に就任。選手に初めて会ったとき、こう呼びかけた。
「みんなで一緒に甲子園に行こう」
だが、選手の反応に出ばなをくじかれた。生徒たちは前田の言葉に笑い始めた。
当時の帝京は、高校野球界では全く無名。甲子園にいけるレベルの高校ではなかった。木製バットでチャンバラ。ボールもグラブがあるのに足で蹴る。そんな態度に、前田はカチンときた。「根本的な姿勢ができていない。これではダメだ」
最初に教えたことは「ボールの縫い方」
最初に教えたことは野球の技術ではなく、ボールの縫い方だった。新しいボールは買わず、針と糸を買った。そして、みんなで縫ったボールを使って練習した。ボールを買えなかったわけではない。野球に臨む姿勢を学んで欲しかった。
だが、なかなか思いは伝わらなかった。練習を厳しくすると、40人ほどいた部員は一気に6人に減った。
大会に出て、甲子園を目指すにはこれ以上、部員を減らせない。そこで考えたのが、生徒との寝泊まりだった。学校の近くに借りていた平屋の8畳の部屋に6人を泊め、自身も4畳半の部屋に寝泊まりした。
「選手が逃げ出したら大会に出られない」との思いで必死だった。起きたら朝ご飯を食べさせ、6人分の弁当も作った。卵を焼いたり、ウィンナーを入れたり。「昆布とか、千葉出身だからのり弁とかも作ってやった」。昼休みには買い出しに行き、練習が終わる頃に夕飯を作って食べさせて、風呂に入れて寝かせた。
前田の熱意が通じたのか、選手たちにも変化が見え始めた。自分のバットでチャンバラをやらなくなり、縫ったボールを足で蹴ることもなくなった。
初ボーナスでバットをプレゼント
ただ、厳しかっただけではない。初めてのボーナスは、選手たちに使った。新宿のスポーツ店にあったバット工房に生徒を連れて行き、好きな型のバットを1本ずつ買ってあげた。職人が木を削ってバットを作る過程もみせた。
「新卒の初ボーナスなんてたかがしれているし、バットを作るので、いっぱいいっぱい。でも、なぜか苦ではなかった」
生徒たちを甲子園にも連れて行った。テレビで見るだけではわからない、「重み」を感じさせたかった。「みんな食い入るように見た。甲子園を目で見た選手たちは、ここでやりたいっていうのを表に出すようになった」
甲子園を視野に関西に遠征した。すでに数々のプロ野球選手を輩出していたPL学園(大阪)との練習試合も取り付けた。「僕も若かったから、怖いもの知らず。だから、単刀直入に学校に電話した。帝京高校なんて知らないだろうし、断られるんじゃないかと警戒したけれど、受けてくれた」
突き動かした甲子園への思い
自身、帝京大学時代に驚いたのは、関西の人間の「粘っこさ」だった。勝利への執念、諦めない心、勝負どころでの戦い方……。選手とともに全国レベルを肌で感じ、勝負心を学んでいった。
だが、前田にも甲子園に出られるという自信があったわけではない。帝京に来たのは、大学4年の時にコーチを頼まれたのが縁。「野球の指導なんてできっこないと思っていた。ただ、甲子園っていう言葉を聞いて『高校生と行こう』と。それで監督を引き受けた」
前田を突き動かした甲子園への強い思い。帝京が初めて甲子園に出たのは、そんな気持ちを生徒に笑われたあの日から、わずか6年後のことだった。(敬称略)(野田枝里子)
まえだ・みつお 1949年生まれ。千葉県出身。木更津中央高(現木更津総合高)から帝京大に進み、大学時代は4年間補欠だった。現役時代は三塁手。72年の卒業と同時に帝京高の監督に就任した。78年春に甲子園に初出場し、89年夏にエース吉岡雄二(後に巨人など)を擁し、初の全国制覇を果たした。92年春、95年夏にも優勝を飾った。甲子園通算勝利数は春夏合わせて51勝。21年夏に退任し、現在は名誉監督。主な教え子に中村晃(ソフトバンク)、山崎康晃(横浜DeNA)、松本剛(北海道日本ハム)ら。
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