【詳しくはこちら】卓球 女子シングルス 早田ひな 銅メダル パリオリンピック

“この子は絶対に五輪でメダルを取れる”

早田選手が卓球を始めたのは4歳のころ。

先に始めていた姉の卓球教室の送り迎えについていっていたのがきっかけで、そこが石田コーチの両親が指導している教室でした。

1メートル67センチの女子の卓球選手としては長身の早田選手の持ち味は、左腕から繰り出す男子顔負けの強烈なフォアハンド。

しかし、実は卓球以外はすべて右利き。

卓球で左打ちにしたのは、石田コーチの母の「この子は足は左利きなんじゃないか。その足の力を利用したパワーを生かせる」という助言からでした。

そして、石田コーチの両親が早田選手を指導したあと「ひなのドライブを世界一にしてね」と託され、当時、勤めていた会社を辞めて早田選手の指導に専念したのが石田コーチでした。

当時について「早田選手の努力と姿勢を見たときに、この子なら絶対にオリンピックでメダルをとれると思った」と振り返ります。

10年間 支え続けたコーチ

それから10年、石田コーチは、卓球の指導や戦術の考案はもちろんのこと、早田選手の食事づくりまでありとあらゆる面で支え続けてきました。

シングルスのエースとして臨んだ初めてのオリンピックの舞台。

準々決勝の北朝鮮の選手とのフルゲームの激闘を終えたあと、早田選手の左腕が疲労の蓄積などもあって悲鳴をあげたのです。

世界ランキング1位の孫頴莎選手との準決勝では、痛みから本来の実力を発揮できず、ストレート負けしました。

3位決定戦まで残された時間はおよそ20時間。

自分ができる最大限のサポートを

準決勝後、7時間にもおよぶ医師の治療をうけたという早田選手を石田コーチは「自分ができる最大限を」と懸命にサポートをしました。

みずからも腕にテーピングをし、動きにどんな制限が出るか実際に確かめたうえで、早田選手と一緒に戦術を考えました。

そのうえで試合開始の5分前に痛み止めの注射を打つと、早田選手は「やれるかもしれない」とコートに出ました。

試合が始まると石田コーチは、強化してきた多彩なサーブを有効に使うことなどともに考えた左腕の負担を抑える戦術をアドバイスし、笑顔を絶やさず、早田選手を鼓舞し続けました。

二人三脚でつかんだ銅メダル

そうしてたどり着いた銅メダル。

勝利を決めたあと早田選手は石田コーチのもとに駆け寄り、抱き合って喜びを分かち合いました。

試合後、石田コーチは「奇跡です。本当に努力が報われて良かった。金メダルとはいかなかったが、その価値に値すると思う」と話したうえで、「準々決勝まではやっぱりすごいな、楽しいなだったが、左腕の痛みが出て急にまずい、まずいとなって、これはもうだめだ、どうしようってところからのメダル獲得。世界一のジェットコースターに乗ってるみたいな感じ」と笑顔で話しました。

一方、早田選手は「けがをしてからずっと隣で支えてくれて、石田コーチには感謝しきれないほど感謝している。銅メダルを獲得できて少し恩返しができたかなという思いはある。周りの人のたくさんのサポートがあってできたことなので、私の中では金メダルより価値がある」と話しました。

石田コーチの両親が見いだした卓球での左打ち。

それを10年かけて開花させ、二人三脚でつかんだ銅メダルです。

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