夏の甲子園で12日に初戦を迎える明徳義塾(高知)の応援に、東京から1人の卒業生がやってくる。遊撃手の山畑真南斗選手(3年)の叔父で、2002年に全国制覇した主力選手の沖田浩之さん(39)だ。

 20年春、都内の焼き肉店で店長をしていた沖田さんのスマホが鳴った。

 「お前の店は大丈夫か」

 明徳義塾の馬淵史郎監督だった。当時、新型コロナウイルスの感染が拡大。監督がよく口にしていた「耐えて勝つ」という言葉を思い出していた頃だった。

 沖田さんは兵庫県尼崎市出身。甲子園を目指して明徳義塾に入った。身長161センチと小柄だが、2年の夏の甲子園に2番左翼手で出場。3回戦の常総学院(茨城)戦では八回裏に同点となる2点本塁打を放ち、チームは勝利。勢いもつけた。智弁和歌山を破って優勝し、怖かった監督が泣くのを見た。

 亜細亜大で野球を続けたが、ひじを手術し、社会人では軟式に転向した。30歳で焼き肉店を展開する都内の会社に入り、店長になった。明徳義塾のユニホームを店内に飾っていたら、甲子園常連校の元球児たちから「俺のも飾って」とユニホームが寄せられた。店内は30着ほどになった。

 20年春、コロナ禍で店は一時休業。他店の宅配を手伝いながら「耐えて勝つ」という言葉をかみしめた。「社会に出てから色んな場面で思い出した言葉。けれど、新型コロナの時は特に強く心に思った。ここでもう一回、踏ん張らないといけないんやなと」

 馬淵監督は勝利を追求し、「耐えて勝つ」を口癖にしてきた。監督就任間もない92年夏、石川・星稜の松井秀喜選手を5打席連続敬遠し、議論も呼んだ。守備を磨き上げた「守りのチーム」で甲子園の常連に。そして23年、高校日本代表を率いて18歳以下のW杯で日本に初優勝をもたらした。

 明徳義塾が毎年のように甲子園に出場するのは、沖田さんにとっても励みだった。しかし、20年春には選抜大会が中止に。出場するはずだった明徳義塾の後輩たちの失意に思いをはせた。自分の店も大変だったが、同窓生たちで差し入れを送った。

 12日の試合に挑むおいの山畑選手は叔父の活躍を幼少期から聞いて憧れ、明徳義塾に進んだ。身長165センチとチームで最も小柄だが俊足、堅守の遊撃手。冬にバットを振り込んで長打力も身につけ、高校日本代表の練習にもチームから唯一呼ばれている。「叔父さんは追い付けない存在。でも一歩でも近づけるように頑張って、試合に勝ちたい」と山畑選手は言う。

 くしくも、対戦する鳥取城北は、20年春の選抜中止の影響で、その夏の甲子園であった「交流試合」で戦った相手。沖田さんはテレビで試合をみた。九回裏二死まで追い詰められての逆転サヨナラゲームだった。

 おいっ子と恩師、そして後輩たちは今回、どんな試合をするだろう。「チームカラーが似ているので守りあいになるでしょう」と沖田さん。「そして、きっと最後は、耐えて勝つと思います」(蜷川大介)

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