1972年の札幌オリンピックで金メダルを獲得し“元祖・日の丸飛行隊”として知られる、笠谷幸生さんが亡くなりました。スキー板を平行にそろえた飛行と「世界一美しい」と称された着地で日本スキージャンプの礎を築きました。80歳でした。

■冬季五輪での日本人初金メダル

アジアで初めて開催された冬季オリンピック。当時は6競技35種目の大会でした。カラーテレビが普及したころ、日本中のヒーローになったのが、スキージャンプの笠谷幸生さんです。

笠谷幸生さん(当時28歳)
「(Q.ノルウェーのモルク選手が飛ぶところは)よく見てない。一緒に飛んでますから。(Q.外国勢の強敵は)参加する選手みんなでしょうね。(Q.すべてがライバル)ライバルってね、ジャンプは相手を倒すわけにいかない。(Q.むしろ自分との闘い)それに勝った人が勝つのでは」

北海道で生まれ育ち、地元に蒸留所があるニッカウヰスキーで働きながら出場した札幌オリンピック。日本中の期待を背負って飛んだ70メートル級で、冬のオリンピック日本人初の金メダルを獲得しました。

着地で両足を前後させるテレマークは「世界一美しい」と評価されました。そして、金野昭次さん、青地清二さんと共に表彰台を独占。『日の丸飛行隊』と呼ばれるようになりました。


■メダルは故郷に 選手育成に尽力

その貴重な金メダルを笠谷さんは、ぽんと町に寄贈。地域のみんなに見てもらうためです。

男性
「感動しましたよ。テレビで見てましたから」

今とは違う硬い板でしたが、柔軟で強靭な笠谷さんの技術は後輩に受け継がれ、今の選手たちにも生かされています。原田雅彦さんは、笠谷さんたちの活躍でつくられた少年ジャンプチームで育ちました。

長野五輪金メダリスト 原田雅彦さん
「私が途方に暮れたときも力強く励ましてくれた事、今でも忘れません」

■次世代のために…“バトン”受け継ぐ

地元が同じで、小さなころから背中を見て育ったという、船木和喜さん。今、アップルパイを販売しています。

長野五輪金メダリスト 船木和喜さん
「(笠谷さんに)一番言われたのは『人に言われてやるな』と『自分で考えて動きなさい』という言葉をもとに自分の会社をやっている」

全国の催事などで自らも店頭に立って得た売り上げは、ジャンプを練習する子どもたちの支援に充てています。

長野五輪金メダリスト 船木和喜さん
「今、僕たちがあるのは札幌オリンピックで金銀銅を取ったメンバーのおかげだと思っている。ジャンプ台の数も増えて、ジャンプ人口も多くなりました。ちゃんとそのバトンを受け継いで。本当に偉大な方なんです。すごく影響力のあった方ですから。ああいう人になりたいという思いでやっています」

沈思黙考(ちんしもっこう)な職人気質でジャンプに取り組み、人々を驚きと歓喜に包んだ笠谷さん。

笠谷幸生さん
「(Q.日の丸をあげると言われているが)あげようと思ってあがらないし、自分の最高のものを出したい」

23日、虚血性心疾患で亡くなりました。全日本スキー連盟は「現在の日本のジャンプ選手の快進撃の幕開けだったと思います。笠谷さんのご功績は日本スキー界の代えがたい宝であります」と追悼しています。

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