関東大学ラグビー対抗戦の「早明戦」は12月1日、東京・国立競技場で100回の節目を迎える。

 1923年に始まった両校の対戦は、戦争による中断を経ながら100年以上続いてきた。

 早稲田と明治という日本のラグビー界を引っ張ってきたライバル対決は、「名将」と呼ばれる指導者も生んできた。その歴史を振り返る。

早大・宿沢広朗氏、日本代表監督として金星

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熊谷高(埼玉)から早稲田大に進学し、スクラムハーフとして活躍した宿沢広朗氏(中央)。大学2、3年時の1970、71年度の日本選手権で連覇を果たした。住友銀行(当時)の為替ディーラーだった89年、日本代表の監督に就任。初戦でスコットランドに28―24で競り勝ち、ラグビー先進国である国際ラグビー機構(IRB・当時)加盟8チームから初の金星という快挙を成し遂げた(写真)。91年のワールドカップ(W杯)ではジンバブエを破りW杯初勝利。94年度は早大の監督も務めた。三井住友銀行取締役専務執行役員だった2006年に心筋梗塞(こうそく)で急逝。55歳だった。

明大・北島忠治氏、「前へ」を指針に長年指揮

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「前へ」という明治大の指針を作り上げたのが、1929年から67年間にわたり指揮を執った北島忠治氏だ。21年に明大専門部に入学し相撲部で活躍したが、助っ人としてプレーしたラグビーに魅了された。卒業と同時に監督に就任し、強力なFW陣を中心に愚直に前進する戦い方を確立。松尾雄治や吉田義人、元木由記雄ら数々の日本代表選手を育てた。食糧難だった終戦直後には、グラウンドのある東京・八幡山で選手とともに麦やサツマイモなどを育て、試合相手にも食材を持たせて帰らせたとの逸話が残る。

早大・大西鉄之祐氏、チームを復活させる「魔術」

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大西鉄之祐氏は早稲田大の監督を3度(1950~54年度、62~64年度、81年度)にわたって務め、その度にチームを復活させたことから「大西魔術」とも呼ばれた。66~71年には日本代表も率いた。ショートラインアウトといった新たな戦法を編み出し、オールブラックス・ジュニア(23歳以下ニュージーランド代表)に23―19で勝利。ラグビーの母国イングランドと3―6の接戦を演じ、世界から注目を集めた。体格差のある海外勢に対抗するため、「展開、接近、連続」と理論化した戦い方は、サッカー日本代表の岡田武史元監督に影響を与えたことでも知られる=大西アヤさん提供

明大・田中澄憲氏、22季ぶり大学選手権Vへ導く

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兵庫県出身の田中澄憲氏は報徳学園(同県)から明治大に進み、現役時代はスクラムハーフとして活躍した。引退後は明大のコーチを経て、2018年に母校の監督に就いた。同年、選手の自主性を重んじる指導で、チームを22季ぶりの大学選手権優勝に導く。自身が大学3年時に優勝した時以来の日本一で、北島忠治元監督が死去して以来初の頂点でもあった。19年と20年は関東大学対抗戦連覇も達成。22年にリーグワン1部・東京サントリーサンゴリアスの監督に就任し、24年からは同クラブのゼネラルマネージャーを務めている。

早明ラグビーの歴史

1918年 早大ラグビー部創設

1923年 明大ラグビー部創設。戸塚球場で両校が初対戦し、早大が42―3で制した

1929年 明大に北島忠治監督が就任。以来、67年間指揮を執る

1943年 第2次世界大戦の影響で中断(45年まで)

1974年 初めて国立競技場で開催された大学選手権決勝で、早大と明大が対戦。早大が29―6で勝つ

1976年 松尾雄治を中心とした明大が日本選手権初優勝。松尾は後に新日鉄釜石でも活躍

1982年 この年の早明戦は6万6999人の観客が詰めかけた。64年の東京五輪を除き、旧国立競技場で最多記録

1987年 雪が残る中で試合が行われ、「雪の早明戦」と語り草に

1988年 堀越正巳、今泉清、藤掛三男の「1年生トリオ」が躍動した早大が4度目の日本選手権優勝。大学勢が日本選手権を制したのはこの年が最後

2013年 旧国立競技場で最後の「早明戦」

2019年 25年ぶりの全勝対決に大観衆が詰めかけ、明大が勝利

2020年 大学選手権決勝で両校が対戦し早大が勝利。この試合は新しい国立競技場で、はじめて行われたラグビーの試合だった

2023年 100周年の早明戦は明大が58―38で制した。通算対戦成績は早大の55勝、明大の42勝、引き分けは2試合。

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