トヨタ創業者豊田喜一郎が誕生
1894(明治27)年 「トヨタ自動車」の創業者豊田喜一郎が、豊田自動織機製作所創業者・豊田佐吉の長男として生まれた。米国で自動車を流れ生産するフォード工場を見学し、乗用車製造を志す。戦前に軍用トラックの生産に乗り出し、戦後は朝鮮戦争特需で業績を回復したが、1952年3月27日死去。乗用車の夢はいとこの豊田英二に引き継がれた。
関連記事
- 世界を席巻する90年代日本製スポーツカーの魅力と、次の注目モデル
- トヨタ社長交代の舞台裏と狙い、佐藤恒治新社長の横顔とは
- EV化に出遅れた日本の自動車メーカー、巻き返しへの課題を探る
その他の出来事
伊能忠敬、測量旅行へ出発
1800年(旧暦:寛政12年閏4月19日) 千葉・佐原の酒造家伊能忠敬(1745~1818)が隠居後、日本地図作成を志し、第1次測量のため蝦夷地(北海道)に向けて出発した。その後も全国各地を測量して地図を作成。その正確さは幕府に評価され、資金面などの支援を得たうえ幕臣に取り立てられる異例の厚遇を受けた。日本地図の完成を目指して測量を続けるが、その途上で死去。弟子が事業を引き継ぎ21(文政4)年、『大日本沿海輿地全図』を作成し、忠敬の死を秘したまま幕府に納めた。
関連記事
- 伊能忠敬:隠居後に前人未到の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成
- 島国ニッポン : 36年ぶり数え直しで一挙倍増の1万4125島に
義和団の乱:日本公使館員殺害
1900(明治33)年 排外主義集団「義和団」に同調した清国軍の兵士が北京の日本公使館員杉山彬を殺害した。日清戦争後、列強による中国分割が進み、これに反発した農民らが武力闘争を繰り広げた(義和団の乱)。清国守旧派が列強に宣戦布告し外国公館区域を封鎖。日本、米、英、独、仏など8カ国の連合軍が北京を占領し、開明派が連合軍と協力して義和団を制圧。清国は巨額の賠償と外国軍の駐留をのまされた。
デモなどで脱原発訴え
関連記事
- 60年超運転へ 岸田政権の原子力政策大転換 : 揺らぐ「推進」と「規制」の分離
- 脱炭素社会に向けた日本の課題
- 日本の原発訴訟:福島事故をきっかけに活発化
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。