武田薬品工業の社長、会長を務めた武田国男さんが8日、84歳で死去した。創業家出身のカリスマ性を生かしながら、本業の医薬品事業に経営資源を集中。「世界のTakeda」の礎を築いた。
1940年、神戸市で創業家3兄弟の末っ子として生まれ、62年に武田薬品工業に入社した。4年半の仏英留学などを経て、83年に米子会社の副社長に出向。社内の反対を押し切って前立腺がん治療薬を投入し、社の中核となる米国市場の足がかりをつくった。
一方、80年に兄で副社長だった彰郎氏が急逝し、同年に父で6代目社長の長兵衛氏も亡くした。93年に久々となる創業家出身の社長に就任。世間からは「大政奉還」とやゆされ、記者会見では「株式数でも武田家との関係は薄い」と語気を強めた。自著「落ちこぼれタケダを変える」(日本経済新聞出版)では「兄が健在であればあり得なかった人事だ」と振り返っている。
就任後は食品や化学などに多角化した経営を医薬に集中する方針を打ち出した。「業績も良くないのに、仲良しクラブのようだ」と数千人規模のリストラや成果主義の人事制度を取り入れた。市場ニーズに合わせた研究開発体制も確立し、糖尿病など画期的な新薬開発につなげた。ぼうこうがんを患う中、社長就任直後の94年度の売上高7716億円から、2001年度には国内製薬企業初の売上高1兆円を達成。会見では「それほどの感激はない。医療用医薬品(単体)での達成ではない」と世界の上位企業を見据えた。
在任10年の03年に後継として、最年少の取締役で国際派の長谷川閑史氏を指名。退任理由を「老害が出る」と歯に衣(きぬ)着せぬ物言いも最後まで光った。
「製薬は夢のある産業。画期的新薬を通して世界に貢献したい」という理想を結果で示した武田さん。1781年創業の老舗企業をスピード感のある経営革新で、世界的企業に成長させた。【杉山雄飛】
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