フィリピンはマニラ首都圏のマカティ市。外資系企業の集まる高層ビルが並ぶこの街から、車で30分ほどのパサイ市にある公設市場に3月のある朝、足を運んだ。

時刻は午前8時半を過ぎたところ。卸売りのピークは過ぎたようで場内の様子は穏やかだ。市場の屋内の中心には食肉や鮮魚を扱う店が陣取り、見るからに新鮮な目のキラキラした魚が並んでいるかと思えば店頭に豚の頭や大きな枝肉が現れて驚かされる。

この鮮魚・食肉エリアを取り囲むような形で、加工品や調味料を商う小さな店がいくつも店を構えている。そのうちの1軒でフィリピン味の素の営業員のレイ・ウガテスさんが、店頭につるされた商品を奇麗に並べ直していた。

昨年、勤続25年の表彰を受けたというウガテスさん。2人体制で週2回、場内と場外にあるこうした売店を80〜100軒訪問し、商品の陳列を手伝いながら、在庫をチェックし、注文を受けたり、代金の回収をしたりしているという。

市場や周辺を歩くと、どの売店でも赤地に白字で書かれた「味の素」の3文字が目に入ってくる。ウガテスさんたち営業職の日頃の活動のたまものだ。こうした市場内の売店は、フィリピン全土に約6万店あるとされている。

タイ法人が調味料・食品事業で売上高が最大の海外法人であることからも分かるように、味の素グループにとって東南アジア諸国連合(ASEAN)地域は重要な拠点だ。タイ、ベトナム、インドネシア、フィリピンの4カ国はブラジルと並び世界の5大拠点に位置づけられている。2023年3月期に味の素の調味料・食品事業のうち、家庭向けの売上高は世界全体で5893億円。このうち53%をアジアが占めた。この中には中国なども含むが、ほとんどがASEAN地域だという。

「ブランドを販売網が支える」

主力商品であるうま味調味料の味の素はタイやフィリピン、ベトナム、インドネシアでいずれもシェアトップで、国ごとの独自調味料も強い。タイでは「ロッディー」が約80%、インドネシアでは「マサコ」が約50%のシェアをそれぞれ押さえて1位。ロッディーとマサコは日本でいえば「ほんだし」に当たる風味調味料だ。

(写真提供:味の素)

フィリピンでは、「クリスピーフライ」と「テイスティーボーイ」という2種類の唐揚げ粉を販売しているが、両者で市場をほぼ独占している。味の素アセアン地域統括社の坂倉一郎社長は「確固たるブランドを持ち、それを販売力が支えている。販売力の源泉となるのは毛細血管のように張り巡らされた販売網。これが当地での強さです」と力を込める。

調味料でASEANにすっかり根を下ろしている味の素。さらに市場を深掘りするため、フィリピンを舞台に次の一手を打ち始めた。

「ベース・オブ・ピラミッド(BOP)」マーケティング。所得階層別人口ピラミッドの底辺を狙って低価格商品を投入する新興国戦略の手法はこう呼ばれる。味の素がASEANで現在の地位を築けたのは、この地道な実践の積み重ねに負うところが大きい。

そしてこのBOPマーケティングの原点は、1958年に現地法人を設立したフィリピンにある。少額のワンコインで買えるよう、3グラム入りという極小パックの味の素を用意し、市場の小売店を定期的に回りながら現金で直売するという営業スタイルを構築した。これが他国にも横展開されていった。

市場だけでなく「サリサリストア」と呼ばれる個人商店も開拓してきた。サリサリとはタガログ語で「色々な」との意味。文字通り食品や日用品を幅広くそろえ、庶民の生活を支える。その数は一説によると、120万店にも上るという。

そんなフィリピンで、近年は所得層の構造変化が起きている。ASEANの中でも、富裕層と貧困層という二極構造が顕著だったが、中間層が都市部を中心に厚みを増している。多数を占めるピラミッドの下層を攻略して成功を収めてきた味の素は、戦略の転換を迫られている。

急速に台頭する中間層を取り込まなければ、築き上げてきた牙城も揺らぎかねない。そこで力を入れ始めたのが冷凍食品だ。この取り組みはフィリピンの成長段階をまさに捉えた判断と言える。

世界銀行によれば、フィリピンの1人当たり国内総生産(GDP)は2022年に約3500ドル。一般に1人当たりGDPが3000ドルを超えると、家電製品の売れ行きが加速し、コンビニや大型ショッピングモールが普及し始めるとされる。

冷凍設備を備えた売り場が広がり、家庭には冷凍室付きの冷蔵庫が置かれる。都市部を中心に台頭する中間層は給与所得者が中心で、共働きも多く、食事は手軽に済ませたい──。

こうした社会背景から立ち上がりつつあるフィリピンの冷凍食品市場。味の素の前に立ちはだかるのは、現地大手財閥サンミゲル・コーポレーションの食品子会社だ。マカティ市内にあるスーパーの冷凍食品コーナーを訪れると、ひと際、豊富な品ぞろえで目を引いた。

冷凍庫のガラス戸の向こうに並ぶのは、鶏肉をクリームで煮込んだ「パステル」に、豚の角煮に似た「フンバ」。同社のラインアップは地元のフィリピン料理が中心で、価格は300ペソ(約800円)前後だ。

ギョーザが30個入りの理由

黎明(れいめい)期の冷凍食品市場に味の素が投入したのはギョーザと唐揚げ。中でも本命は定番商品のギョーザだ。30個入りで価格は550ペソだが、大容量なのには冷凍食品事業がたどった紆余(うよ)曲折がある。

実は当初、冷凍ギョーザは外食店にBtoB(企業向け)で展開する予定だった。経済成長に伴い日本旅行に行く層が増え、本格派の日本式ギョーザに対するニーズが高まっているところを捉える計画だったが、折あしく新型コロナウイルス禍が重なった。

レストランや居酒屋の客足が途絶え、売り先を失った冷凍ギョーザの在庫が積み上がっていく。途方に暮れて一部を電子商取引(EC)サイトに出品すると、一般家庭から注文が入り始めた。フィリピン味の素で営業とマーケティングの責任者を務める青木宏徳氏は「劇的に中食需要が増えていた。いっそのことリテールに挑戦しようということになった」と振り返る。

フィリピン味の素の冷凍食品担当はこれまで2人だったが、今年4月からは80人体制と大幅に増員。国内に27カ所ある全ての営業所に冷凍食品担当を置いた。5月には冷凍ギョーザの12個入りも発売する予定で、より消費者が手に取りやすくなると期待する。

調味料では圧倒的な味の素でも、冷凍食品という新たな領域に挑戦すれば、手ごわいライバルが待ち受けている。サンミゲルに代表されるような財閥系は、経営体力があり、意思決定のスピードも速い。

変化するニーズを捉え続ける

こうした現地勢のスピードに対抗する上でコロナ禍に導入した予算管理手法が強力な武器となる。ローリングフォーキャストと名付けられたこの手法では、原料調達価格や売れ行きなどを月ごとに把握し、業績見通しを随時、更新していく。足元のデータから、最適な打ち手を検討でき、経営のスピードを大幅に向上させている。

20年にインドネシアで試験的に導入し、21年にはASEANの他の国にも拡大した。現在では味の素グループ全体に広がっている。経済成長が続くASEAN地域では市場のニーズも常に変化する。地道に築いてきた販売網と最新のデータ分析を掛け合わせ、ASEAN市場のさらなる深掘りに挑む。

消費者の変化を好機にする


味の素アセアン地域統括社の坂倉一郎社長に聞く

[さかくら・いちろう]フィリピン味の素社長、インドネシア味の素社長を経て、2021年から現職。タイ味の素社長を兼務(写真:大西弘司)
 東南アジア諸国連合(ASEAN)地域の消費者の特徴として、サステナビリティーに対する関心が非常に高いというのがあります。これは世代を問いませんが、中でもエシカル消費が定着しているのはやはりZ世代です。
 味の素アセアン地域統括社ではその中でも、消費者の関心が高い温室効果ガスの削減と、プラスチック包装の削減に力を入れています。タイ北部のカンペンペット工場では二酸化炭素(CO2)排出量を、2030年度までに18年度比で50%削減する目標を掲げていますが、バイオマス熱電併給で既に40%の削減に成功しています。
 タイ、インドネシア、フィリピンの3カ国では紙包装の「味の素」も発売しています。これまで強みにしてきた安全や品質、環境に妥協しない安定生産に加えて、新しい価値も打ち出しているところです。
 健康意識が高く、共働き率が高いといった特徴も見られます。ASEAN平均で約8割の世帯が共働きで、そのうち7割が夫婦で家事と育児を分担しているというデータもあります。
 ASEAN地域におけるお客様のニーズはより簡便で、おいしくて、栄養のあるものをという方向に動いていくのだと思います。そういった中で我々の技術力が生かせるのはやはり定番のギョーザに代表される冷凍食品になります。
 現時点でASEAN地域における冷凍食品事業の売上高は、タイとシンガポールがほとんどです。今後はフィリピンやインドネシア、ベトナムが一大拠点になるよう事業を成長させていきたい。
 冷凍食品を調味料に次ぐ一つの柱にすべく、ASEAN地域全体でチャレンジしていきたいと思っています。

(日経BPバンコク支局長 奥平力)

[日経ビジネス電子版 2024年4月23日の記事を再構成]

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