病弱の少年にとって、時刻表が外界への窓口だった。寝込むことが多く、遊ぶことはままならない。「時刻表をめくって、日本中を旅することが楽しみでした」。12月13日に老衰のために亡くなったJR東海初代社長の須田寛さん(享年93)は、かつてのインタビューでそんな思い出を語ってくれたことがある。
「だから、将来の夢は鉄道の仕事に就くこと。路面電車の車掌になりたかった。乗客の切符をパチンパチンと改札する。あれが格好良かった」
軍国主義が台頭した昭和初期に生まれた。「学校の先生が『将来は何になりたい』と聞くんですよ。男の子はみんな、『兵隊になりたい』『兵隊になりたい』と答えるんですな」。そんな強制的同一化への反発もあり、須田少年は正直に「車掌になりたい」と答えたそうだ。「バチン、と先生に顔を張られましたな」
その夢をかなえ、入社した国鉄時代。時刻表で培った素養もあってか、鉄道ダイヤの改善などに取り組む。大阪万博、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどを担当し、観光産業にも関わるようになっていく。
「日本人は観光を『物見遊山』と勘違いしている。観光とは『光を観る』ということです。その土地の風土、歴史に触れて、その土地の人々と交流することが大切」。観光は平和をつくる。インタビューのたび、そんな思いをしばしば聞いた。
1987年の国鉄分割民営化により、JR東海の初代社長に就任した。須田さんは「自分がなぜ、選ばれたかは分からない」と首をかしげた。一方で「歴代首相の指南役」とされた旧日本陸軍参謀、瀬島龍三氏(元伊藤忠商事会長)に呼び出され、社長就任を告げられた――とのエピソードも教えてくれた。
当時のJR東海の取締役の一人が「国鉄改革三羽ガラス」と称された葛西敬之氏(2022年死去)だった。国鉄時代に理事を務めた須田さんは分割には消極的で、葛西氏とは「当初はギクシャクしていた」(JR東海関係者)。しかし、須田さんは名古屋鉄道管理局長などを経験しており、「地元経済界に人脈、人望があった。やがては2人が両輪になり、JR東海の基礎を築いていった」(同)という。
数々の肩書の中で、須田さんが特に大切にしていたのは「鉄道友の会」の会長職(22年退任)だった。「鉄道ファンにとって、須田さんは『神様』」(同会幹部)。日本の最優秀車両を選出する「ブルーリボン賞」の贈呈式に出席し、うれしそうに記念写真に納まっていた姿がまぶたに残る。
個性的な経営者の多いJRグループの中で、どちらかというと地味なイメージ。ただし、あるJR関係者は「鉄道の復権が常に頭にあった人。鉄道愛にあふれた鉄道人だった」としのんだ。【高橋昌紀】
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