泉裕泰(いずみ・ひろやす) 1957年、広島市生まれ。81年東大法学部卒、外務省へ。人権人道課長、駐米公使、駐バングラデシュ大使などを歴任し、2019年10月に退官。23年11月まで日本台湾交流協会台北事務所代表。現在、同協会顧問。
◆着任直後に衝撃「今世紀最大の人権問題だ」
ロヒンギャ難民の大規模発生から間もない2017年9月、泉氏は駐バングラデシュ大使として着任した。数日後、同国南東部コックスバザールの難民キャンプを訪れ、衝撃を受けた。見渡す限りバラックが立ち並ぶ難民キャンプ。子どもの姿も多い=2019年9月、バングラデシュ南東部コックスバザールで(北川成史撮影)
「人、人、人」。箇条書きのメモにそんな言葉が残る。山を切り開き、バラックが乱立していた。泉氏は「密集と混沌(こんとん)が広がっていた」と振り返る。 親族がミャンマーの治安部隊に殺害されるなど、迫害の話が次々と聞こえてきた。「今世紀最大の人権問題だ。記録し、日本に報告しなければならない」。そう感じた泉氏は離任までの2年間で、計11回キャンプに足を運んだ。 夜は暗く、清潔な水が足りないキャンプに、国際協力機構(JICA)と連携してソーラー式屋外灯や深井戸を設置した。サッカー元日本代表主将で日本ユニセフ協会大使の長谷部誠氏を招き、キャンプの子どもたちとの交流も図った。ダッカで2019年6月、サッカー元日本代表の長谷部誠氏(右)と記念撮影する泉氏=泉氏提供
一方で、身近なところで温度差に直面した。泉氏は外務省内で「ロヒンギャという言葉は使わないように」とくぎを刺された。◆呼ばなければアイデンティティー否定になる
日本はこの時期、民政移管して「アジア最後のフロンティア」と言われたミャンマーに、官民一体で進出を図っていた。ロヒンギャを民族として認めていないミャンマー政府との関係を悪化させたくない意図が透けた。実際、ミャンマーの日本大使館は「ロヒンギャ」の呼称を使わなかった。 しかし泉氏は「ロヒンギャ」と呼び続けた。「義憤に駆られ、人権の観点で決めた。『ロヒンギャ』と呼ばなければ彼らのアイデンティティーの否定になる」 省内ではこう主張した。「私はかぎカッコ付きで『ロヒンギャ』と呼んでいる。ミャンマーに何か言われたら、そう答えてください」。かぎカッコは一種の方便だ。ロヒンギャと名乗る民族が存在するという強いメッセージを込めていた。◆クーデター勃発を聞き在日リーダーに助言
ミャンマーはロヒンギャの帰還に積極的ではなかった。バングラデシュのハシナ首相に会った際に「ロヒンギャ難民の一部にでも、市民権を与えられないか」と提案したところ「世論が許さない」と拒まれた。2017年11月、ミャンマーを逃れ、バングラデシュ南東部コックスバザールの海岸に船で漂着して間もないロヒンギャ難民たち(北川成史撮影)
100万人規模の難民は、日増しに地域社会との摩擦を生んでいた。難民による不法就労、治安の悪化、物価の高騰などが取り沙汰された。両国のはざまで、ロヒンギャの厳しい立場が浮き彫りになっていた。 在任中、難民の帰還は実現しなかった。泉氏は退官し、日本台湾交流協会台北事務所長に。その職にあった21年2月1日、ミャンマーで起きたのが国軍によるクーデターだった。 泉氏はすぐに在日ロヒンギャのリーダーの一人、アウンティン氏(56)に連絡した。大使時代、難民キャンプ支援のためバングラデシュを訪れたアウンティン氏と知り合い、交流を続けていた。「民主派と共に闘う姿勢をぜひ見せてほしい」と助言したという。 クーデター後、ミャンマーでは国軍と民主派側との内戦になった。国軍に対抗する民主派勢力は、ロヒンギャに市民権を与える声明を出している。 「民主派側が勝てば、難民帰還の望みも出てくる」 泉氏は、ロヒンギャを迫害する国軍の支配が終わり、問題解決への道が開けるよう願う。◆「日本は人権に結構冷たい」
外務省人権人道課長を務めた泉氏はかねて人権問題に関心が強かったという。アジアやアフリカでストリートチルドレンや孤児院の様子を視察してきた。貧困や格差を目にしてきた泉氏はこう語る。「外交に必要なのはイマジネーションとコンパッション(想像力と思いやり)だ」 ただ、日本の外交や社会の流れは、泉氏の信念と合致しているとは言えない。 「日本は人権に結構冷たい」と泉氏は漏らす。 今年、日本政府は米国などに追従し、イスラム組織ハマスのイスラエル襲撃に職員が関与した疑惑を理由に、パレスチナ自治区ガザで人道支援をする国連機関への資金供与を一時停止した。「どう考えてもイスラエルの報復はやりすぎ。米国との同盟は大事だが、全て言うとおりにするのは違う」と疑義を示す。 「『ウクライナ避難民を助けよう』という動きは起きたが『ロヒンギャやクルド難民を日本で受け入れよう』とはあまりならない」とも。「アジアは貧乏で人権の価値が低いという意識がないか」と投げかける。◆理想主義が薄れてきた日本の外交
インタビューに答える元駐バングラデシュ大使の泉裕康氏=東京都豊島区で
日本の重要政策である政府開発援助(ODA)も変質した。泉氏が1981年に入省したころ、国連中心主義のもと、貧しい国には条件をつけずに支援し、世界をよくしていこうという姿勢が前面に出ていた。だが「米中対立などでリアリズムが強まっていった」。 外交ツールという側面が色濃くなり、昨年には「同志国」の軍を支援する「政府安全保障能力強化支援(OSA)」が新設された。政権が内閣人事局を通して省庁人事を握り、「官邸主導」「政治主導」となった統治構造の影響も見え隠れする。 「国際社会の公正と信義に信頼し、国際社会に貢献するという理想主義が薄れてきた」。泉氏は憲法前文を引き合いに出しつつ、警鐘を鳴らす。「理想主義だけで外交は回らないけれど、現実主義だけでは弱肉強食の世界になってしまう」◆千羽鶴を広島に贈ったロヒンギャの子どもたち
広島市出身の泉氏が心に残っている大使時代の出来事がある。 ロヒンギャの子たちが難民キャンプの学校で、国連機関が用意した教科書で学んでいた。その中に、米軍が広島に投下した原爆で被爆し、回復を願って必死に鶴を折り続けたものの、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの物語があった。2019年4月、ロヒンギャ難民の子たちが折った千羽鶴を広島市幹部に渡す泉氏(左)=同氏提供
ロヒンギャの子たちは禎子さんを思い、平和を祈って千羽鶴を折ってくれた。泉氏はその千羽鶴を広島市に届けた。 泉氏は力を込める。「ガザでは毎年、東日本大震災の被災者を思い、子どもたちがたこ揚げをする。世界で一番かわいそうな境遇の子たちが、日本のために祈ってくれる。ならば私たちも、世界で困っている人たちのため、知恵を絞って何かしなければならない」◆デスクメモ
軽んじられる避難民は日本国内にもいる。東京電力福島第1原発事故で故郷を離れざるを得なかった人たちだ。政府は汚染に向き合わず、帰還政策に前のめりに。避難生活を続けるために必要だった支援策は打ち切られた。想像力と思いやりの欠如は、何も外交の局面だけではない。(榊)ロヒンギャ 仏教徒が9割とされるミャンマーで西部ラカイン州を中心に暮らすベンガル系のイスラム教徒。英国の植民地時代以降に来た移民だとして、自動的に国籍を与えられる先住民族から除外され、多くが無国籍状態になっている。2017年8月下旬、同州でロヒンギャの武装勢力と国軍など治安部隊が衝突。治安部隊から殺人やレイプなどの迫害を受け、膨大な人数のロヒンギャがバングラデシュに逃れた。同州では昨年来、国軍と少数民族ラカイン人の戦闘が激化。ロヒンギャにも被害が出ている。
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