ブラジルの警察は第2次世界大戦の直後の1946年からおよそ2年間、日本の移民など172人をサンパウロ州沖の島の刑務所に収容しました。

日系人団体などによりますと、多くの人たちが日本の国旗などを踏むよう強制され、拒否すると身柄を拘束されて刑務所内で虐待や拷問を受けたということです。

戦争中にアメリカなどの連合国側だったブラジルで、日本人に対する差別や反感が根強く残っていたことが関係したとみられています。

こうした状況が人権侵害にあたるかどうか、ブラジル政府の諮問機関である恩赦委員会は調査していて25日に、謝罪をするか審議が行われます。

審議は1946年以降の独裁的な政権下で起きた人権侵害について行われますが、戦争中の1943年にはサンパウロ州沿岸部に住む日本の移民など、およそ6500人が24時間以内の立ち退きを強いられていて、日系人の団体はこれらの行為も謝罪の対象に含めるよう求めています。

戦中・戦後の日本人に対する行為でブラジル政府はこれまで公式な謝罪を行っておらず、日系人社会の間では誠実な対応を求める声が強まっています。

立ち退きを強いられた日系人は

サンパウロ州の港町サントスで生まれた日系2世のイハ・コウユウさんは3歳の時、ブラジル政府に24時間以内の立ち退きを命じられ、両親やきょうだいともにサンパウロへの移動を余儀なくされました。

イハさんによりますと、ブラジル政府は「サントスの沿岸部にスパイが潜伏している」と主張して日本人の移民を市内の駅に集合させ、兵士の監視の下で強制的に市内から退去させたということです。

生後間もなかったイハさんの妹は、強制退去のあとまもなく死亡しました。

また、イハさんの一家は戦後になってサントスに戻ることが許可されたものの、当時両親が営んでいたそうめん工場は他人の手にわたっていたということです。

イハさんは「もし謝罪が実現しても背負った苦しみがなくなることはありません。ただ、過ちがあったと認識されることになります。父と母が生きていたら、この謝罪は大きな慰めになるでしょう」と話していました。

また、審議を前にNHKのインタビューに応じた、恩赦委員会のエネア・アウメイダ委員長は「このような迫害が発生したことをブラジル政府が認識することは非常に重要だ。政府は彼らが受けた迫害について謝罪するつもりだ」と話していました。

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