重病を患って半身不随の寝たきりだった父親を放置して死亡させたとして尊属殺人罪などで服役中だった20代の男性Aが7月30日、韓国慶尚北道の刑務所を出所した。「模範囚」として刑期満了前に仮釈放されたこの翌日、国会でヤングケアラー支援法案が議員提案された。2021年に起きたこの事件は少子高齢化が加速する韓国社会に衝撃を与えた。

「主文。被告人を懲役4年に処する」。約3年前の21年8月13日、大邱(テグ)地裁11刑事部。A被告は有罪判決を言い渡された。

判決文によると、Aは父親(56)の一人息子として約10年前から親子2人で暮らしていたが、20年に父親が脳出血で倒れ、大邱市内の病院に入院した。退院後も父親は左側の手足がまひし、介助なしで生活することはできなかった。

大邱地裁は「息子である被告人には、被害者が持続的に栄養を摂取できるよう世話するなど生命に危険が及ばないよう必要な措置をとる義務があった」と指摘。Aが故意に食事や処方薬を与えなかったため、父親が栄養失調に陥り、肺炎などの発症で死に至ったとして「直系尊属の被害者を殺害した」と結論づけた。

父親を介護する20歳の大学生(19日、ソウル大学病院)=写真は本文とは関係ありません。一部加工済み

「1カ月に1.4人、1年で16.4人」――。老人介護に関する犯罪と対策を研究している韓国の慶尚国立大学校法学研究所が2019年に、06年から18年までに起きたいわゆる「介護殺人」の件数を発表した。この数字は集計可能な最小値であり、明らかになっていない介護殺人の件数はさらに多いとみる。

長い介護生活に疲れ果て、本人もそして家族もその呪縛から逃れられないという意味で、介護犯罪は「死んでこそ終わる戦争」とも称される。その数は年々増えているという。

韓国保健福祉省は24年4月に政府レベルでは初めてとなる「ヤングケアラー」(大人に代わって日常的に家事や家族の世話をする子ども)の実態調査を行った。1週間あたりで21.6時間の介護生活を強いられ、平均的な介護期間は約4年(46.1カ月)にのぼる。

どうにもならないピースが組み合わさり、そこに予期せぬ不条理が生まれる。Aの事件は深刻なヤングケアラーの実態と少子高齢化の構造問題を改めて浮き彫りにした。高齢者を支える家族の負担が重くのしかかる現実は日韓両国に共通する。

酷暑のなか、高齢者の車椅子を押す(19日、ソウル市内)=写真は本文とは関係ありません。

この事件を受け、社会的な支援の受け皿がなく、半身不随の父親をケアしながら絶望の淵に陥っていくAの姿を、韓国のインターネットメディアである「真実探査グループ Sherlock」がカン・ドヨン氏という仮名で詳報している。

Sherlockによると、カン・ドヨン氏に「お父さんが銭湯で倒れた」との連絡が入ったのは20年9月。父親は解雇された工場労働者だった。病院に駆けつけると、すでに父親の意識はなかった。医師は脳出血で応急手術をする必要があると同意を求めてきた。

手術後、父親の意識は戻ったものの食べ物をかんで飲み込み、消化する能力を失った。体につながれたチューブで栄養を注入しなければならず、自力で動かせるのは右腕と右足だけだった。

医師からは「お父さんは一生横になって過ごさなければならない。回復の可能性はほとんどない」と告げられた。高額な入院治療費を請求され、親戚に助けを求めた。

カン・ドヨン氏は大学を休学し、アルバイトを探し回ったがほとんど断られた。お金は底をついた。電話やインターネット回線は遮断され、都市ガスも止まり、暖房も使えなくなった。複数の金融機関から借金返済の督促状が届いた。

食事は賞味期限切れで廃棄する予定のコンビニ弁当などを食べた。炊飯器でご飯を炊いても、しょうゆを混ぜて食べるしかなかった。いつも「温かい食事がしたい」と思った。

高齢者をストレッチャーで運ぶ救急隊員ら(19日、ソウル市内)=写真は本文とは関係ありません。

21年4月、父親の療養先の病院から緊急連絡があった。「お父さんが呼吸困難になったので救急病院に移送した」。その日、カン・ドヨン氏は熟慮の末、「延命治療を中止してほしい」と医師に要請した。経済的な困窮が極まっていたためだ。ところが医師は「延命治療の中断の要件に該当しない」と説明し、受け入れなかった。

「お金がないので父を退院させたい。家に帰らせてほしい」と訴えたが、医師は「お父さんの命が危険になる。自宅での介護は難しい」と反対した。結局、病院に対して「一切の責任を負わせない」との念書を提出し、父親を退院させた。

自宅で2人暮らしを始めたカン・ドヨン氏は父親の鼻から栄養素を入れ、排せつを手伝い、2時間ごとに姿勢を変え、まひした父親の手足をもんだ。

ある日、父親が小声で言った。「ドヨン、すまない。もうやりたいことをしながら幸せに生きていきなさい。必要なときがあれば呼ぶから、それまで部屋に入ってこないで」。挫折感と無力感がカン・ドヨン氏を襲った。死にたいと思った。

高齢者世代を支える若年層の負担が高まっている(16日、ソウル市内)=写真は本文とは関係ありません。

部屋を出たあと、しばらくすると父親の様子が気になり、思い切って入った。5月3日夜。それが父親との最後の日となった。何も言わずに自分を見つめる父親の姿に、カン·ドヨン氏は泣き崩れた。

「被告人Aは被害者(父親)の部屋に一度入ってみたが、被害者は目を開けていながらも、被告人に水や栄養食をくれと要求せずにじっとしていた。被告はこれをじっと見守りながら泣いていたが、そのまま、部屋のドアを閉めて出てきた後、被害者が死亡するまで部屋に入らなかった」(大邱地裁の判決文の一部)

Sherlockによるとカン・ドヨン氏はこの数日後、夢を見た。父親は普通に歩きながら掃除をしていた。驚いて「お父さん、大丈夫?」と尋ねると「大丈夫。掃除が終わったら映画を見て、トンカツを食べて、好きな本も買おう」と父親は笑っていた。

その日の夕方、カン・ドヨン氏は父親の部屋の扉をそっと開けた。異臭がまん延していた。「お父さん」。そう叫んだが返事はなかった。床に横たわっている父親に近づき、鼻の下に手を当てた。息遣いは感じられなかった。119番通報した。「父が亡くなりました」――。

父母と息子とみられる家族3人が幸せそうに食事を楽しんでいる(20日、ソウル市内)=写真は本文と関係ありません。一部加工済み

カン・ドヨン氏の半生は孤独だった。小学校1年生の時、母親は「ちょっと出かけてくるから、ご飯を食べて待っていて」と言い残して家を去った。その後、母親は二度と帰ってこなかった。

学校から帰宅した幼いカン・ドヨン氏を迎えたのは常に電気が消えた真っ暗な部屋だった。父親は毎日、酒を飲み、深夜に帰宅した。不安を募らせたカン・ドヨン氏はいつも電気をつけたまま一人で寝た。

逮捕された後、カン・ドヨン氏はこんな心情を吐露している。「ただ人並みに父と母、私の3人で向き合ってご飯を食べたかった。普通の人にとってはただの一日、ただの一瞬。でも私にとっては一番大切でかけがえのない時だった」

藤田哲哉(ふじた・てつや)
1993年日本経済新聞社入社、社会部へ。4年間の警視庁担当を経て97年政治部。首相官邸、自民党(中曽根・山崎派、宮沢・加藤派)、野党、法務、総務、防衛、外務の各省庁など担当。2006年韓国延世大留学。国際部、官邸長、政治部次長、地方部長などを経て23年ソウル支局長。

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