大津市と京都市山科区の境にそびえる音羽山(標高593メートル)の山科側の中腹に、京都・清水寺の「奥之院」と呼ばれる古刹(こさつ)がたたずんでいる。かつて修験道の聖地として隆盛した法厳寺(ほうごんじ)で、開祖は清水寺と同じ延鎮。古代以来の深淵(しんえん)な歴史を伝えるが、山寺のため参拝者は少なく建物や文化財の傷みは激しい。こうした中、寺宝の「法嚴寺縁起絵巻」が京都の文化遺産を守る基金の支援を受け修復されることになり、再興への一歩を踏み出した。
<770年、小嶋寺(奈良県高取町の子嶋寺)の延鎮は、金色に流れる水に導かれて音羽山に入山し、行叡(ぎょうえい)という仙人と出会う。行叡は「観音像を彫ってこの地に祀(まつ)れ」と延鎮に言い残して去っていく…>
こうした開山伝承を記した7メートル超の法嚴寺縁起絵巻は、寺の根幹をなす宝。江戸時代前期の作成と推定され劣化が目立っているが、文化財に指定されていないため修復しようにも行政の補助は受けられない。
力になったのは、文化遺産を地域の力で保全する活動を推進する公益財団法人「京都地域創造基金」(理事長、新川達郎・同志社大名誉教授)だ。
専門家による審査を経て、クラウドファンディングの手法も活用する基金のプロジェクトが令和4年10月にスタート。境内の巣箱にすむムササビをキャラクターにした交流サイト(SNS)での呼びかけや、寺の行事に訪れた地元住民らの寄付、龍谷ミュージアム(京都市下京区)での縁起絵巻展示といった活動を通じて寄付が積み重なり、修復に必要な目標額を超える389万円の支援金が約1年間の活動で集まった。
そして今月、文化財の保存・修理を手掛ける岡墨光堂(京都市中京区)による修復が始まった。
絵の具の膠着(こうちゃく)力低下による剝離(はくり)や剝落、紙の繊維の摩耗や毛羽立ちといった劣化が激しく、今後約2年をかけて解体的な修理を施すという。
田中祥祐住職は「縁起絵巻の修復は先代からの悲願だが、夢の話だった。気持ちが詰まった支援をいただき、安定した状態で見てもらえるようになるのは感無量だ。本堂をはじめ修理が必要な文化財はまだ多く、これを再興のスタートにしなければならない」と話していた。
■創建伝説が酷似
京都市東山区の清水寺と山科区の法厳寺はともに同じような創建伝説をもち、どちらの側にも「音羽山」「音羽川」「音羽瀧」が存在する。その理由は不明確で両寺の関係は謎めいているが、京都市山科区の郷土史家、鏡山次郎さんは『音羽の山寺-牛尾観音 法嚴寺史-』(平成27年)で次のように考察している。
770年、延鎮が現在の法厳寺付近に草庵を建てたのが宗派の起こりで、778年に音羽山観音寺(法厳寺)を創建した。そこに780年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(後の征夷大将軍)が入山。観音菩薩の篤信者となり、後に新寺(清水寺)を寄進した。
延鎮も十一面千手観音像とともに清水寺に移り、法厳寺は清水寺の「奥之院」と称され、僧侶の修行場としての役割を担った-。
鏡山さんによると、平安時代の法厳寺には真言宗の空海、天台宗の円仁(えんにん)、円珍らが入山。三社、十三寺を擁する一大聖地となるが、兵乱に巻き込まれて衰退。南北朝時代には全山が焼失した。
江戸時代に再建されると観音信仰でにぎわいを取り戻し、赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)は仇討ちの成就を祈願。大正時代には清水寺貫主が法厳寺住職に就任したが、昭和25年、清水寺から離別して本山修験宗の寺となり、現在に至る。
■17日に春季御開帳
法厳寺(京都市山科区)では17日、本尊の十一面千手千眼観音像の春季御開帳がある。御詠歌「法嚴寺縁起和讃」が奉納され、法要が営まれる。問い合わせは寺(075・595・3317)。
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