――認知科学や言語心理学が専門である今井さんが書いた、コミュニケーションの本が売れています。なぜだと、分析されていますか?
こう書けば売れるだろうとか、考えたことがないからかもしれないです。ずっとアカデミアの世界にいて、ビジネスとは遠いところにいます。ただ、認知科学の分野で、子どもの言語発達の基礎研究をしているので、子どもの心についてはいつも考えています。
私が今一番力を入れて取り組んでいるのが、小学生・中学生の学力困難についてです。例えば分数ができない子はなぜできないのか。分数の単元でよく教科書に出てくるのは、ピザやホールケーキの絵で、半分にした絵を示してこれが2分の1だと教えます。教科書会社の人も先生も、それで2分の1の意味が分かって当然と思っている。
でも実はその絵を見て、2分の1を理解するのは、すごく難しいことです。その絵から2分の1は円いものを半分に分けたものと思ったとしても、四角いものとか、ひもとか、コップ1杯の水とか、全然形状が違うものが2分の1になり得るとは子どもは考えないかもしれません。「普通分かるでしょ」というのは大人の発想です。
ピザの端っこを切っても2分の1と思う可能性もあります。私が行った実験結果を見ると、そもそも分数の前提となる、「等しく分ける」という概念も小学2年生・3年生ではまだ分かっていないのです。分からないものがたくさん集まっている中で、分数を理解しないといけない。学校現場では「9歳の壁」といわれているのですが、学ぶ内容がいきなり抽象的になってついていけなくなる。
前提として分かっていないといけないことがすごくたくさんあって、一人一人の経験や関心によって「普通分からないよね」というところを飛び越して、教え方や解法のテクニックで何とかしようとしている。
同じことが、大人の世界でも起こっています。私は、子どもが分数の単元でつまずくことと、言っても伝わらないコミュニケーションの問題には、同じ構造を見ています。コミュニケーションが苦手、うまく伝わらないことに対しても、こう話しましょう、日常的なこういう声かけが有効です、などのテクニックに行きがちですが、それでは問題の解決にならない。その構造はそっくりだなと思います。
人はみな自分の知識の枠組みで「分かった」と思い込む
――分数で、「等しく分ける」という前提でつまずいていることに気付くべきであるように、大人の世界でもコミュニケーションにつまずく原因として、知っておくべき前提があるのでしょうか?
その1つが、人はそれぞれスキーマを持っているということです。
子どもも大人もそうですが、人は、一人一人学びや経験、育ってきた環境が違いますし、同じ環境で育ったとしても、興味・関心が異なれば形成される枠組みは違ってきます。こうした枠組みのことを認知心理学では「スキーマ」と呼んでいます。人は誰しもスキーマを持っていて、思考のバックヤードで常に稼働しています。
スキーマがないと相手の言っていることも分からないのです。私の最近の経験でお話しすると、古代オリエントの印章学についての論文を読んだのです。実は私にとって遠縁に当たる女性研究者が書いたもので、私も美術は好きですし、日本語で書いてあるから字面は追えるけれど、全然分からない。頭にも残らない。論文や書籍を読み慣れていても、スキーマがないと分からないことを実感しました。
スキーマがなければ分からないし、ある人にとっての「分かった」はあくまで「その人のスキーマ」を通してものです。人のコミュニケーションのずれは、そういうところから生まれているのだと思います。
――本にも登場している、2024年1月2日に羽田空港で起きた航空機事故の海上保安庁航空機と管制塔とのやりとりの話は衝撃でした。
実際のやりとりは英語ですが、録音によると、確かに両者は了解しているのです。管制官は「滑走路に進む優先度ナンバーワン」という意味で言い、海保機側は「離陸順位ナンバーワン」と受け止め、滑走路に侵入したのではないかと考えらえています。
間違いようのない言葉に思えますが、何のナンバーワンなのかという共通認識がないと、とんでもないことになってしまうわけです。言葉は発する側の意図をそのまま表現できるわけではなく、常に受け取る側によって解釈され、解釈されて初めて意味あることとして伝わるのです。
――言葉を発する側の思いと、受け止める側の解釈を一致させるために、大切なことは何ですか?
人は自分が知っていることは相手も知っているはずという、ある種の思考バイアスがあります。発達心理学では5歳以前の幼児の特徴として、スイスの心理学者ピアジェが指摘したことで知られています。幼児は自分と相手の間に遮蔽物があったら、自分側からは見えているおもちゃが、相手には見えていないことが分かりません。
認知的な柔軟性や他者視点が取れるかは、年齢とともに発達していきます。でも、大人が常に他者視点を取れるかというと、実はそうではありません。デフォルトは自分視点で、状況によっては他者視点が取れるようになっていくということなのです。それでも簡単に自分視点に戻ってしまう、それが人間なのだと思います。
人は何をどう聞き逃し、都合よく解釈し、誤解し、忘れるのか。それを知ることが、スタートラインですね。
――仕事の場面では、同じ打ち合わせに出ていたはずのメンバー間でも、そんなこと言った・言わないで全く認識が違ったり、メールで通知しているのに全く見ていない人がいたり、といったことはしばしば起きます。
「言った・言わない」問題で言うと、人の脳の情報処理能力は限られているので一言一句覚えていることは不可能です。意味の塊で、言ったことや聞いていたことを覚えているしかないのですが、その意味の塊も背後に働いているのはスキーマです。
認知心理学で古典的な記憶の研究として知られているのが、ニクソン大統領のウォーターゲート事件です。スタッフの1人が大法廷で証言したのですが、たまたまその現場の録音が残っていたのですね。証言と録音されていたい実際のやりとりを比べると、もみ消し工作など要点では間違いがなかったのに、例えば「部屋に入ると椅子に座るように勧められた」のような日常のやりとりについては、実際の会話にはなかったことを証言している。「こういう場面ではこういうやりとりがあるはず」という本人が持つ会話のスキーマが、作り出してしまっていたのです。
「見ている・見ていない」問題に関しては、私は毎年受講生に実験をします。大学生に何も見ずに500円玉の絵を描いてもらうのですが、日常的に見ているのに、まともに描ける人はほぼいません。視界には確実に入っているのに「見えていない」ことは珍しいことではないのです。メールに締め切りが書いてあったとしても、文書に誰が見ても明らかな注意書きがしてあったとしても、本当に言語情報としてしっかり処理したかどうかは分からないのです。
人の記憶はいいかげんで脆弱で、誰もが異なるフィルター、つまりスキーマを無自覚に持っていて、違う視点や違う考え方をする――という仕組みが分かると、少し理解もできるし対応もできます。そして、それぞれの専門性や思考バイアス、偏った視点を持つ者が集まって仕事は進んでいく。でもそれがあるから、意見を擦り合わせたり歩み寄ったりすることで、学べることも大きいわけですよね。
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今井むつみ慶応義塾大学環境情報学部教授。1989年慶応義塾大学大学院博士課程単位取得退学。94年ノースウエスタン大学心理学部Ph.D.取得。専門は認知科学、言語心理学、発達心理学。主な著書に『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)、『学力喪失』『ことばと思考』『学びとは何か』『英語独習法』(岩波新書)、『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)など。共著に『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書、「新書大賞2024」大賞受賞)、『言葉をおぼえるしくみ』(ちくま学芸文庫)、『算数文章題が解けない子どもたち』(岩波書店)などがある。国際認知科学会(Cognitive Science Society)、日本認知科学会フェロー。
(取材・文: 中城邦子、構成: 市川史樹=日経BOOKプラス編集、写真: 山本琢磨)
[日経BOOKプラス2024年6月18日付記事を再構成]
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