能登半島地震で被害を受けた石川県珠洲市の飯田港を訪れ、泉谷満寿裕市長から説明を受けられる天皇、皇后両陛下=3月22日

「天皇陛下さん、ありがとう、ありがとうね」「皇后さまー」

がれきの残る町を行く銀色のマイクロバスに向かい、次々と感謝の声が飛んだ。3月と4月の2度にわたり、天皇、皇后両陛下が足を運ばれた能登半島地震の被災地。両陛下は沿道に集まった一人一人の表情を焼き付けるように、バスの座席を右へ、左へと何度も移動しながら、手を振って応えられた。

新型コロナウイルス禍を経て、対面では約4年ぶりとなった被災地お見舞い。2度目の訪問では特別機の不具合で到着が1時間遅れ、視察先を一部割愛する案も出されたが、帰京を遅らせてでも、全ての場所を巡ることを希望されたのは、両陛下だったという。

受け継ぐ

平成28年8月、上皇さまは国民に向けたビデオメッセージで、「象徴」としての務めについて自らの言葉で語り、その務めを切れ目なくつなぐ形での代替わりの必要性をにじませられた。改めて定義された「象徴」という言葉に、多くの国民が重ねた光景が、阪神や東日本などの震災被災地に、献身的に赴かれた上皇ご夫妻のお姿だった。

苦難や災厄の時にこそ、人々の「傍ら」に立つ-。上皇さまが実践で描き出された象徴像を、受け継がれた天皇陛下。3週間という短期間のうちに、2度の被災地訪問が実現した背景には、皇室に対する被災自治体側の期待とともに、「直(じか)に」被災者を見舞うことへの両陛下の強いお気持ちがあったとされる。

「声をかけても、いいですか」

両陛下が4月12日に視察された石川県穴水町。元日の能登半島地震で壊滅的な被害を受けた商店街で、営業中の美容室を認めた天皇陛下は案内役の吉村光輝(こうき)町長に断ると、皇后さまとともに店に立ち寄り、店主らと懇談された。

実際に現地に赴かれたからこそ生まれた気づきや、思いがけない出会い。3年以上に及んだ新型コロナウイルス禍を経て「直接交流の良さを改めて、肌で感じられたのではないか」。側近は今回の被災地ご訪問について、そう推し量った。

コロナ禍が阻んだ、国民と皇室の触れ合い。ただ、両陛下はお歩みを止めたわけではなかった。

遠隔交流

「国民の皆さんの力になるために、私たちに何ができるか」

陛下は即位から5年を前にした2月の誕生日の記者会見で、コロナ禍で国民との直接交流が途絶える中、オンラインによる「つながり」を模索した日々を、こう振り返られた。

一方、葛藤の中で新たに見えた「可能性」にも言及された。

感染症対策として導入されたオンラインだったが、中山間地域や離島など、これまで訪問が難しかった遠隔地の人々とのご交流が実現。また、皇太子時代から「水」問題の研究をライフワークとする陛下が、天皇としての公務を続けながら、国際会議に臨席されることも可能になった。

宮内庁は、オンライン交流のノウハウも蓄積してきた。陛下は「課題もある」としつつも、引き続き状況に応じた形で活用していく考えを明らかにされている。

心の接遇

コロナ禍は、伝統や前例を重んじる皇室の行事にも変容をもたらし、意外な効果も生んだ。

感染収束後に再開し、従来と大きく変化した行事のひとつに、外国賓客を招いての「午餐(ごさん)」(昼食会)がある。参列者を半数程度に絞り、ホスト側、ゲスト側双方7~9人ずつとする形式が定着。少人数の接遇がむしろ、ゲストの高い満足度につながった背景には、相手との心の距離を縮めるために両陛下が凝らされた工夫があった。

和食の前菜に、「江戸切子」のグラスを用いた日本酒による乾杯。日本を身近に感じてもらうための、こうしたアイデアは両陛下が以前から温められていたものだったが、感染対策としての行事の見直しのタイミングで実現した。

宮内庁幹部の一人は「コロナ禍の制約は、皇室の行事や、両陛下のご活動の意義を改めて問い直すきっかけにもなった」とした上で、「苦しみの中で新たな扉が開かれたことで、令和の両陛下らしいなさりようがおのずと表出してきたのではないか」と振り返る。

陛下のご即位から、5月1日で5年。コロナ禍に翻弄されながらも、国民とともに歩みを続けられた令和の皇室の現在地を探った。

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