障害があっても 人生を変える出来事があっても
生まれた時から左腕のひじから先がない齋藤選手が砲丸投げを始めたのは、中学1年生のときです。
障害があっても1人の競技者として勝負できる経験が、大きな自信につながったといいます。
そして、高校2年生で人生を変える出来事が起きました。
東日本大震災です。
宮城県気仙沼市出身の齋藤選手は競技への思いをより強くしました。
自宅が流され、避難生活を送る中で、日々、先行きの見えない不安や恐怖にさいなまれていたといいますが、避難所の体育館の外で砲丸投げを練習する時間が心のよりどころになりました。
一緒に避難生活を送った人からの応援も大きな励みになったといいます。
震災から3年後。
齋藤選手は女子砲丸投げの腕に障害のあるクラスで、当時の世界記録を更新。ところが、当時は砲丸投げの齋藤選手のクラスは、競技人口が少なく、パラリンピックでは実施されていませんでした。
それでも「被災地に元気を与えたい」とパラリンピックの出場を目指し、やり投げに転向しますが、出場はかないませんでした。
5年ぶりに砲丸投げに復帰
そして、パリパラリンピックでようやく齋藤選手のクラスが実施されることが決まり、5年ぶりに砲丸投げに復帰します。
おととしには長女を出産し、体重は15キロ減少してピークだったころに比べ、飛距離は4メートルも落ちました。
「元に戻れるのか」と不安に襲われましたが、ようやく訪れたチャンスをつかむために、過酷な筋力トレーニングを取り入れ、徹底的に下半身を鍛え直しました。
今も、全盛期の体格には、戻っていませんが、育児と競技を両立させながら過去の自分を超えようと、練習に励んできました。
待ち望んだ舞台で
そして、18年待ち望んだパラリンピックの舞台。
1回目、10メートル91センチと思うような投てきができません。
不安や緊張から体に力が入ってしまったといいます。
胸をたたき「大丈夫、できる」と何度もつぶやきます。
4回目で11メートル42センチと記録を伸ばしますが、この時点で4位。
齋藤選手がメダルを獲得するためには、復帰後のベストの記録を超えるのが最低条件でした。
「技術は気にせず、思い切り投げるしかない」
脱力することだけを意識して臨んだ最後の6回目。
11メートル61センチと記録を伸ばしたものの結果は4位でした。
メダル獲得はなりませんでしたが「笑顔で大会を終える」という目標のとおり、最後は満面の笑顔でこう振り返りました。
「すごく年月がたってやっと、夢に見ていた舞台に立てた。本当にあっという間で一瞬で終わってしまって、自分のパフォーマンスは最高ではなかったけど、楽しむことができた」
【詳しくはこちら】齋藤由希子 陸上女子砲丸投げで4位
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